2018年
3月号
3月号
新島襄を癒した有馬温泉|有馬歳時記
同志社大学の創立者として知られる新島襄は、明治8年(1875)以来少なくとも4回以上は有馬に来ており、有馬温泉をたいへん気に入っていた人物である。
鎖国下にあった日本はやがて開国を余儀なくされ、慶応4年(1868)には神戸も開港することになる。密航という形で渡米していた襄は、その後、アメリカン・ボード(海外伝道団体)の宣教師として帰国。当時、神戸を活動拠点としていた同団体が神戸の山本通に開校していた女學校(後の神戸女学院)の、学校用地の名義人となっていた。
心臓病やリウマチなどの持病を抱えていた襄は、静養の地として気候のよい神戸を好んだ。医者から突然死の可能性があるとの宣告を受けていたが、明治8年(1875) 11月に同志社大学設立の趣意を発表し、大学設立運動に奔走した。明治19年(1886)夏にも療養のため東垂水村に滞在した際、有馬温泉滞在の様子がしたためられた甥からの手紙に感化され、妻・八重とともに有馬に向かった。知人に宛てた手紙には「1日に1、2回入浴し、炭酸泉を飲んで静かに浩然の気(生命力や活力の源となる気)を養えば、大いに益するところがある」とあり、温泉療養の様子がうかがえる。また、明治21年(1888)の秋ごろから喘息が悪化したため、12月中旬から翌年3月末まで諏訪山和楽園に家を借りて長期滞在した。
襄は明治23年(1890)に47歳で永眠するが、妻とともに有馬で過した時間は彼を癒し、今日に残る偉業の原動力となった。