1月号
ウガンダにゴリラを訪ねて Vol.3
【アフリカ出発からBwindiまで】①
文・中村 しのぶ
なかむらクリニック(小児科)
2013年9月14日23時45分、関空発ドーハ乗り継ぎウガンダまで18時間の旅です。朝5時半真っ暗なドーハの空港でタラップを降りバスで15分以上かけてターミナルビルに向かいます。その遠さとバスの数、スピードに驚きます。深夜の名神高速のトラックのように大型バスが列をなして空港内の道路をターミナルビルに向かい対向車線にも同じくらいの数がすれ違います。
ターミナルビルに着くとそこは眠らない場所、でした。
世界の料理が並び仮眠用ベッド、シャワー、サウナ、トレーニングルーム、屋内用の遊具やゲーム機を置いたキッズルームもあります。砂漠で貴重な水をふんだんに使うことが富の力を示すことになると聞いておりましたが何本かの柱には水が流れきらきら輝いています。アラブ服も多く、ここはカタール、中近東、映像でのみ知っていた世界。トイレもお掃除の女性が立っているので清掃中かと思いましたが驚くべきことに、一人が終わるごとに毎回掃除してくれているようです。手を乾かすのも赤外線を当てた香水の香り(ちょっと強すぎ)の一人ずつのタオルです。
空から見たドーハの町は写真で見たドバイと同じく砂漠の中に突然空港があり、その周りに町があり、町の端はそのまま何もない砂漠に続きます。サッカーファンには痛恨の“ドーハの悲劇”の競技場も見えました。悠久の歴史と文化をもつ砂漠のこの半世紀の変貌、石油経済の怪物のような力に圧倒されます。いきなりアラブのお金持ちになった気分でトランジットの3時間はあっという間に過ぎウガンダの首都カンパラへ出発です。
窓外は夜も明けて砂漠から緑の森とその間に広がる赤い土へと変わっていきます。機内の乗客のほとんどは肌が黒く通路に沿って褐色の顔が並んでいます。どこまでもどこまでも。当たり前とは言えアフリカに来たり!最初のアフリカ実感。
ウガンダの唯一の国際空港、エンテベは日本の小さな地方空港ぐらいの2階建てビルと、草原に滑走路があります。こんな鄙びた空港ですが1976年ハイジャック事件もありました。United Nationsの小型機が何機か止まっており、荷物を搬入しています。難民キャンプに食料や薬を届けるのでしょうか?ニュースでしか見ることのない国連の活動の1カット、そこに働く人たち、頭の下がる思いとこの同じ時間に今日の命も定かでない虐げられた人々がこの空の続きにしかも同じ国内で助けを待っている事実を肌で感じます。
薄暗い建物で入国審査、荷物受取、両替、驚くほどスムーズに終わり表に出ると昼下がりの眩しい陽光と真っ青の空、アスファルトの通路に紙に書いた客の名前を胸にたくさんのドライバーがお出迎えです。NAKAMURAのカードを掲げてくれていたMusokeの案内で屋外通路を2分、泥んこの駐車場にMR. JUNKOと書かれたイスズビッグホーンがありました。
駐車場の際に高さ3mくらいの木があり、まるく枝を張った木に葉はほとんどなくクリスマスツリーのオーナメントのようにたくさんのボールがぶら下がっています。ボールはよく見ると一つずつが草で編まれた篭になっており、一か所小さな穴があり、黄色や黒い鳥が出入りし草を咥えてきて篭を編んでいるのもいます。
糖尿病薬のシンボルの黄色い「ハタオリ鳥」、覚えておられる方もあると思います。1mの距離に人がいても気に留めず一心不乱に何十羽もがそれぞれの篭を編んでいるのです。その薬のパンフレットを見たときCGかと思ったほど非現実的な美しさでしたが今目の前に絶え間ないさえずりと共にこんなにたくさん―。アフリカの土を踏んでまだ10分でもういくつ心ときめかされたことでしょう!
(次回へ続く)