1月号
連載 神戸秘話 ⑬ 女性たちに「装う喜び」を 神戸洋裁教育の母 福冨芳美
文・瀬戸本 淳 (建築家)
カタコトとなるミシンの音が懐かしい。私の母は、洋裁が大好きだった。父の背広をほどいて、上着と半ズボンを縫ってくれた。複雑な模様の手編みのセーターも、厚手の布で野球のグローブまで手づくり。母はもちろん自分の服も自分で仕立てていたが、新聞や雑誌に載っていたパターンをもとにしていた。
福冨芳美は大正3年(1914)、布帛関係の仕事をしていた小田福治の長女として岡山で生まれた。その頃の女性の普段着はまだ和装。大開小学校の入学式で着た、母の友人に仕立ててもらった服が洋服との出会いだったという。やがて県立第一神戸高等女学校に入学、青春時代に神戸のハイカラでエキゾチックなセンスを身につけつつ、プロ用のシンガーミシンで卒業制作にスプリングコートをつくった。ところがあまりの出来の良さに「生徒が縫える訳がない」と横やりが入って、展示してもらえなかったという。
卒業後はトアロードの洋服屋さんで研鑽を積んだ後、21歳の時に裁断を学ぶため上京、杉野学園ドレスメーカー女学校で専門的な知識と技術を会得した。この時代の恩師、今井絹子さんの縁で、後に福冨震一中尉と結婚。家庭は強力な支えとなった。
そして昭和12年(1937)、布引に神戸ドレスメーカー女学院を設立。生徒わずか30名からスタートしたが、神戸大水害禍や空襲での校舎焼失を乗り越え、現在も神戸ファッション専門学校として、新時代に合わせた教育を実現、「即戦力」を育成中だ。これまでに輩出した優秀な人材は数知れない。
戦後は教鞭を執るかたわらで、婦人雑誌や新聞の依頼を受け新作の服にパターンを添えた記事を手がける。私の母もこれをもとに服をつくっていたに違いなく、洋裁の技術を広めることで生活に欠かせない「衣」の復興に貢献した。そして昭和23年(1948)、大丸神戸店の顧問デザイナーに招聘される。その頃の大丸は進駐軍に店の半分を接収され売る物資も乏しかったが、戦争で抑えつけられていた「装う喜び」が湧き上がりつつあった。そんな時代の風を受け手腕を発揮、以降、44年にわたってファッションの第一線を担った。
教育者とデザイナーの二足のわらじで多忙な中、日大芸術学部美術科へ学生として通ったり、時にパリでオートクチュールの技術を吸収したり、アメリカで近代デザインを学んだりと、常に自己研鑽に努めた姿勢は尊敬に値する。また、昭和48年(1973)からスタートした神戸の「ファッション都市」も牽引。まさに神戸のアパレルファッションの育ての親として活躍し、その功績から勲三等瑞宝章を受章している。
私の友人で、同校の教員として20年近くともに過ごした田仲留美子さんは「福冨先生はいつもおしゃれで、日に2度3度とコーディネートしていたんです。やさしい方でお母さんみたいなところもありました。出会いを大切にし、人と人を繋ぐことにも熱心でしたね。常に美しいところに向かっていく姿勢も印象的でした」と振り返る。戦後の神戸にファッションの域を打ち立てた女性の鏡として、後世にその名は残るだろう。
※敬称略
※福冨芳美『わがこころの自叙伝』、神戸ファッション専門学校ホームページなどを参考にしました。
福冨 芳美(ふくとみ よしみ)
服飾デザイナー
1914年、岡山県生まれ。1932年に兵庫県立第一神戸高等女学校卒業後、杉野学園ドレスメーカー女学院研究科で学ぶ。1937年、神戸で最初の洋裁学校・神戸ドレスメーカー女学院(現・神戸ファッション専門学校)を設立、学院長となる。1950年に上京し日本大学文学部史学科に入学、準学校法人福冨芳美学園を設立し理事長に就任。1955年、日本大学文学部史学科卒、日本大学芸術学部美術学科2年編入。1956年より準学校法人福冨芳美学園理事長を退任し理事に就任。服飾研究のためアメリカ・ヨーロッパ諸国へ留学。1961年、日本大学芸術学部美術科卒。以降、欧米各国のデザイン関係の学校やファッション産業を視察。半世紀近くにわたって神戸の服飾文化振興に寄与し続け、1975年に藍綬褒章、1982年に神戸市文化賞、1985年に兵庫県文化賞を受賞。1992年に心不全のため77歳で逝去し、正五位に叙せられた
瀬戸本 淳(せともと じゅん)
株式会社瀬戸本淳建築研究室 代表取締役
1947年、神戸生まれ。一級建築士・APECアーキテクト。神戸大学工学部建築学科卒業後、1977年に瀬戸本淳建築研究室を開設。以来、住まいを中心に、世良美術館・月光園鴻朧館など、様々な建築を手がけている。神戸市建築文化賞、兵庫県さわやか街づくり賞、神戸市文化活動功労賞、兵庫県まちづくり功労表彰、姫路市都市景観賞、西宮市都市景観賞、国土交通大臣表彰などを受賞