10月号
夙川、松園町界隈の歩みについて|夙川 Shukugawa
人気の高い西宮の中でも、ひときわ羨望を集める夙川エリア。
太古からの歴史、豊かな緑、遊園地に由来する明媚さ、
粋な富裕層や文化人たちが育んだ生活文化、
そして高級住宅地としての矜持と風情は、
今なおこの地の宝として継承されている。
その一角、松園町とその周辺の歴史を紐解いてみたい。
古墳に囲まれた一角
松園町の周辺は太古から開けていたようで、周囲には古墳や遺跡がかなり多い。半径1・5㎞の範囲をざっとみても、北には弥生時代の越木岩遺跡や、古墳時代後期から飛鳥時代にかけて多数の古墳が築かれた阪神間最大の古墳群である八十塚古墳群のほか、老松遺跡も見つかっている。北西の高塚町には高塚1~3号墳が、東隣の羽衣町には王子ヶ丘古墳があるだけでなく、さらに夙川の東側には越水山遺跡、神楽町遺跡、市庭町遺跡、西宮神社社頭遺跡が発見されている。西隣の芦屋市側でも阿保親王塚古墳、駒塚古墳、笄塚、うの塚、四ツ塚など古墳以外にも銅鐸の出土地まで点在。まるで松園町を囲むように、われわれの遙かなる祖先たちがこの地でいきいきと暮らしていた痕跡が広がっている。
ここは六甲山系の南麓、山の端から平地へと続き、さらに海も近いところで、昔は自然も豊かで水清らか、農耕にも好適かつ漁業や狩猟を営むにも好都合で、生きるために必要なものはすべて手に入ったであろうことがうかがえる。ゆえに早くからライフステージとして着目されて早くから社会構造が育まれ、それが生活文化の土壌を涵養したのではないかと思うと、太古へのロマンが広がる。
時代は飛んで明治初期、いまの松園町一帯は狐や狸が遊ぶ山林で、旧森具村の一部だったようだ。森具村は由緒ある村で、所伝によれば垂仁天皇の皇后、日葉酢媛命の薨去の際に、野見宿禰という人物がそれまでの殉死の習慣を改め埴輪を用いるよう奏請して認められたと伝わる。また、「しゅく」はもともと野見宿禰の「宿」からきているともいわれている。ゆえに、夙川の「夙」の由来は野見宿禰の「宿」という推理もあながち的を外していないかもしれない。また、「夙」が「守具」となり「森具」となったという説もあり、地名ひとつにも歴史が刻まれていて興味深い。
野見宿禰は埴輪を考案したことから土師(はじ)の姓を与えられ、子孫は天皇の葬儀を司ることになったという。また、野見は「野を見て」墳墓の地を見定める、あるいは石室を造る際の「鑿」にも通じるとされ、伝説レベルではあるが野見宿禰は古墳と深いゆかりがありそうだ。この一帯に古墳が多いことも何らかの関係があるのだろうか。ちなみに野見宿禰は相撲の始祖ともされている。
なお、この村は、江戸時代当初は尼崎藩領だったが、1769年に周囲の村や町とともに幕府の直轄領となった。当時、勘定奉行と長崎奉行を兼務していた石谷淡路守清昌が江戸と長崎を行き来する際にこの一帯が繁栄しているのを見て、天領として幕府の収入を増やそうとして建議、認められたという経緯だ。それもそのはず、その頃の阪神間は田畑が広がって米のほか菜種や綿など商品作物も栽培、海岸部では漁業のほか酒造が盛んで、兵庫から西宮にかけての村は全国的にも豊かだったのだ。この頃は享保の改革と寛政の改革の間にあたり、財政が逼迫していたであろう幕府が目をつけたという訳である。
華やかなりし香櫨園
緑豊かな田園地帯だったこの一帯が開発されたその第一歩は、リゾートとしてであった。
すでに明治7年(1874)に官設鉄道(現在のJR)がここを通るもただ汽車が行き交うだけだったが、明治38年(1905)、阪神が開通し、それがひとつのきっかけとなる。大阪で砂糖を商っていた香野蔵治は現在の夙川一帯に広大な土地を有していた(一説には借り受けていたとも)が、海を望み山も近く、地形に変化があり景観も美しいことから阪神間でも指折りの景勝地に違いないと土地のポテンシャルに着目し、櫨山慶次郎(香野の会社の支配人格で両名は兄弟という説も)とタッグを組んでさらに周辺の土地を取得するとともに、草地や松林を切り拓いて道路や橋を設けるなどして整備。そこにさまざまなレジャー施設を設け、大遊園地、香櫨園を明治40年(1907)に開園させた。その名は香野・櫨山から一字ずつとって命名したもので、阪神線には同名の駅も開園時に新たに開設されている。
さて、しばしタイムスリップして、この香櫨園をご案内しよう。まず目を惹くのは、内澱池(現在の片鉾池)へ滑り落ちるウォーターシュート。50m滑り落ちる迫力満点のアトラクションだ。池にはボートや水上自転車も浮かんでいる。そのちょっと先には、メルヘンなメリーゴーランドが回る。少し遊び疲れたら、百畳敷きの座敷がある恵美須ホテルや、茶屋で一服。一休みしたら民営では国内最大規模の動物園や奏楽堂(音楽ステージ)を楽しもう。猿舎は「百匹猿」とよばれたビッグスケール。ライオンやオランウータン、シロクマやダチョウにも会える。ここのゾウは一度夜中に檻から逃げだし、探し回ったところ、恵美須ホテルの脇の曙池で悠々と水浴びしていたとか。そんな曙池は水鳥たちの楽園。その向こうの運動場、というか広場では、自転車競争や運動会、模型飛行機大会などイベントいろいろ。ここでは明治43年(1910)にグランドを急造、早稲田大学とシカゴ大学による関西初の野球の国際試合が3日間開催され、その際は香櫨園駅からここまで行列ができたとか。前夜には提灯行列が、当日は花火や楽隊の演奏がゲームを盛り上げたが、早稲田が完敗。いまは日本人もメジャーで活躍しているが、当時は実力に雲泥の差があったのだろう。そしてシメは、その奥にある香爐温泉でほっこりと。博物館もあり、台湾の少数民族の展覧会や、浅草で評判のゲテモノの展示など、興味を惹く企画で耳目を集めている。園内は、春は梅と桜、夏はホタル、秋は菊花壇と四季折々楽しめ、しかも風光明媚。一日中過ごしても飽きない充実ぶり、時を超えていまも訪ねてみたくなるようなパラダイスだったのだ。
ちなみに松園町は曙池の場所から推定すると、運動場があったあたりだったようだ。
そして華麗なる転身へ
斬新過ぎたのか飽きられたのか、香櫨園は開園当初こそ賑わったものの、3年も経つと客足が遠のいたようで次第に経営が悪化、なんと開園からわずか6年で閉園になってしまった。栄枯盛衰は世の常とはいえ、なんとも惜しい話だ。閉園前から香櫨園に見切りをつけた阪神は、施設を海岸に移動させ、新たに香櫨園海水浴場を開設している。動物たちは箕面公園の動物園へ移った。
そして残された土地の大部分は、サミュエル商会に引き継がれた。このサミュエル商会はもともとイギリスの総合商会で、明治9年(1876)に日本法人を設け、貿易や石油、保険などの分野でビジネスをおこなっていた会社のようだ。神戸や大阪にも支店があったらしく、このあたりの事情にも通じ、この地に魅力を感じていたのだろう。香櫨園跡地を外国人向けの住宅地にする計画を目論んだようだが、第一次世界大戦の影響か、三井や三菱、鈴木商店などの台頭により日本での外国商会の活動が下火になりつつあった時代背景からか、一説には園内の一部に残留した人との立ち退き問題がこじれていたともいわれ、計画は実現せず転売された。
その後、土地は大阪の本庄京三郎という人物の手に渡り、さらに大正6年(1917)、質屋や釜屋、漆屋など大阪の商家が中心となって設立した大神中央土地に売却された。
大神中央土地は住吉・御影など阪神間で胎動していた郊外の高級住宅地のニーズを掴んでいたのだろう、ここから戦略的な住宅地開発がはじまる。この地を通過する予定だった阪神急行電鉄(現在の阪急)に掛け合い駅設置の協約を結び、大正9年(1920)の神戸線開通時に夙川駅も開業、街のコアを設けた。当時このあたりは大社村だったが、村も上水道を整備し宅地化をバックアップ、それまで森具区の所属だったこの一帯を農村地区から分離し、大正12年(1923)に香櫨園区として独立させ、さらにその9年後に夙川区と改称した。以降、このエリアは夙川地区として定着し、結果的に香櫨園という名は本来の場所から南、阪神香櫨園駅以南の地区を指すようになって今に至っている。
モダニズムの花咲く
もともと遊園地で、起伏に富んだ景勝地だったこの土地の魅力を、大神中央土地は巧みに利用し、現在のニュータウンのように山を削り谷を埋め平地を造るというのではなく、自然の地形を生かしつつ街区を設け、150~1000坪という広い区画とし、分譲地と分譲住宅を用意した。しかも前述のように駅があり交通も至便だ。さらに、昭和初期に記録されたと思われるメモによると坪単価が50円~80円で、当時の銀行員の初任給と同じくらい、つまり現在で言えば20~30万円くらいの値頃感なので、信じられないくらい安い。これだけの好条件ゆえに売れない訳がなく、富裕層がこぞって買い求めた。
大神中央土地の住宅地開発は南から北へと進み、最終的に30万坪ほどになった。そしてパインクレストアパートメントホテルや夙川カトリック教会などモダンなインフラもでき、外国人も多くここに住まい、ヴォーリズに代表される洋風の住宅も建ち、阪神間を代表する住宅として名を轟かせるようになる。特に大正12年(1923)の関東大震災を契機に関東から転入してきた住民も増え、文豪、谷崎潤一郎も一時期ここに滞在したという。
パインクレストは現在の殿山町にあった。一部鉄筋の木造3階建てで貸室60室を擁し、ロビーや食堂、談話室を完備。当時としては珍しい水洗トイレや全館スチーム暖房も整備され、高級官僚や軍人、大企業社員や文化人などが投宿し、作家の川口松太郎、画家の東郷青児らも愛顧したという。阪神間のマダムたちはここで舞踊や料理などを学び、社交ダンスに興じるなど富裕層のサロン的な役割も果たしていた。また、パインクレストの周辺には昭和4年(1929)にナショナル・シティ銀行大阪支店の住宅群が建てられるなど、洋館が多く外国人が多かったため当時は「外人村」とよばれていたそうだ。
このように、華やかなりし阪神間モダニズムのひとつの核でもあったのだ。
めでたい町名の由来
大神中央土地による宅地の範囲は現在の松園町のほか、羽衣町、相生町、霞町、雲井町、殿山町の6町の範囲にあたるが、開発当初はこれらの町名はなく、通りに名前がつけられていたようだ。今の松園町あたりでは、香枦通が東西を斜めに走り、現在の踏切の道は錦筋、その1本西が東雲筋、さらに西に弥生筋の3本が南北を通っていた。
現在の6町は昭和13年(1938)にそれぞれ町名がつけられたが、それらは大神中央土地の重役会でめでたい名前を選んで命名されたという。
「松園」はまさに、この一帯に松が多く自生したことにちなんでいるようで、「相生」はそこからの連想、相生の松からその名が選ばれたとか。松の枝には天女の衣で「羽衣」、天女が舞い上がるのが「雲井」、雲井は皇居の意味でもあり、天皇がそこにおわすならば、摂政や関白の屋敷は殿といい、その殿がある丘は「殿山」、「霞」は雲井の縁語であり、上皇の御所は霞の洞という。
謡曲にちなんで名付けられたという説もあるが、もしかしたら大神中央土地の幹部に謡曲好きがいたのかもしれない。ともあれ、古典の深い教養に根ざした地名は、風格すら感じさせ、土地の価値を間違いなく高めている。
やがて戦争の時代になり、戦後は一部住宅やパインクレストが占領軍に接収された。
高度経済成長期には夙川駅周辺の再開発と区画整理がおこなわれ、阪神・淡路大震災後には山手幹線が開通、さらにJRさくら夙川駅ができ、より便利にアップデートした。
その一方で自治会活動も盛んで、豊かなコミュニティがあり、静寂の環境も住民たちの手でしっかりと守られている。
そして今、松園町とその周辺は、阪神間屈指の住宅地として成熟し、時代に左右されない普遍的な価値を誇っている。太古からの歴史、豊かな緑、遊園地に由来する明媚さ、粋な富裕層や文化人たちが育んだ生活文化、そして高級住宅地としての矜持と風情は今なおこの地の宝として継承され、それは未来永劫輝いていくのかもしれない。
参考文献
『大社村誌』、『西宮市史』、「阪神間モダニズム」展実行委員会編『阪神間モダニズム』、西宮商工会議所『町名の話』、夙川自治会『夙川地区100年のあゆみ』、西宮市教育委員会『西宮の歴史』、朝日新聞デジタル2016年5月14日号ほか