6月号
連載 神戸秘話 ⑱ 人間の善意への信頼 吉川幸次郎に学ぶ孔子の教え
文・瀬戸本 淳 (建築家)
わこうどは/まなびやをたかきにぞおけ/きみみずや/六甲のけわしきおいて/わがにわと/ながむるちぬのうみづらに/海彼のゆめをいざないて/しおさいとおくみちくるを
我が母校、神戸高校の校歌であるが、実は吉川幸次郎先生の作詞だ。戦後まもなく新制高校となったのを機に新しい校歌をと当時の高山忠雄校長から依頼を受けた吉川先生は、漢詩ならお手のものだが和文の作詞経験はないと固辞。友人の三好達治を紹介したが高山校長は聞き入れなかったという。
その頃、吉川先生はまさに崩れんとする中国学を一人で支えていた。中国文学は神への関心を抑制し、人間のみを見つめている。特にその根本となる孔子の教えについて、吉川先生は『中国の知恵 孔子について』で「論語をつらぬいて流れているもの、それは要するに、ふてぶてしいまでの人間肯定の精神、更にいいかえれば人間の善意への信頼であると、感ぜられる」と述べている。
また、そもそも論語は日本人にも広く読まれていた書物で、日本人の精神文化もここに根ざしているところが大きい。『日本の心情』には、日本人が「何によって生きているかいえば、相互の信頼によって生きている。相互の信頼ということは、要するに人間の善意を信頼するということにほかならない」とある。
人間の善意への信頼─きわめて単純であるが、逆に深遠なことばである。戦争に敗れ、再建に努めていた戦後間もない時代の日本人は、こうしたことばに安らぎを覚えた。忠君愛国としての儒教ではなく、人間の善意の信頼としての儒教~儒教の本質に。人々はお互いの能力を認め合い、人間の善意と能力に信頼をおき、善意と能力に富んだ人間の世界を求めていかなければ…孔子にとって唯一無二のものであるこの世界こそ、まさに今の世の中に必要なものではないだろうか。
また、孔子の説く人間の任務は「仁」、すなわち愛情の拡充にあるが、それは学問の鍛錬によってこそ完成されるもので、詩書礼学を嗜むべきであり、「善意の動物である人間の行為を、さまざまな形に分裂させ、しかも分裂のさけめさけめに於いて、常に人間の高貴さを示すものは、感情である。その感情の最もよい記録は、ポエジイである」と、詩の本質を洞見している吉川先生だからこそ得意な漢詩でなくとも美しいやまとことばで神戸高校の校歌を編み出すことができたのかもしれない。三好達治に添削を依頼したところ「学者は理に落ちるな」とだけ言い、手を入れなかったというが、それだけ完成度が高かったということだろう。
『中国研究の方法』には、日本人は将来の人類の生活の糧となるものや反省材料になるものを明らかにすることに恵まれた地位にあると綴られている。君たちはその特権を義務として働かせる義務を人類全体に負っているから、大いに読書して教養を高め、そして世界人であるという自覚を持ち、世の中に貢献しなさい─在学中に何気なく歌っていた校歌だが、そんな吉川先生の思いが込められているのではないかと歌詞を噛みしめている。果たして自分は「海彼のゆめをいざないて」いるだろうか?
※敬称略
※神戸高校同窓会誌、吉川幸次郎『日本の心情』、吉川幸次郎『中国の知恵 孔子について』、『思想との対話10 吉川幸次郎 文明のかたち』などを参考にしました。
瀬戸本 淳(せともと じゅん)
株式会社瀬戸本淳建築研究室 代表取締役
1947年、神戸生まれ。一級建築士・APECアーキテクト。神戸大学工学部建築学科卒業後、1977年に瀬戸本淳建築研究室を開設。以来、住まいを中心に、世良美術館・月光園鴻朧館など、様々な建築を手がけている。神戸市建築文化賞、兵庫県さわやか街づくり賞、神戸市文化活動功労賞、兵庫県まちづくり功労表彰、姫路市都市景観賞、西宮市都市景観賞、国土交通大臣表彰などを受賞