4月号
連載 神戸秘話 ⑯ 神戸とオリーブと小妖精と父 久坂葉子と父 川崎芳熊
文・瀬戸本 淳 (建築家)
トアロードに面して残る唯一の木造西洋館である「東天閣」は、明治27年にドイツ人のビショップ邸として建てられたが、その東向かいに現在「神戸北野ホテル」が建っている。明治12年、この一角の3千坪の敷地で、明治政府の勧農政策によりオリーブが栽培された。フランスから持ち込まれたオリーブの樹550本が見事な実をつけ、初の国産オリーブ油になった。さぞ美しい景色であったろうと思う。しかし、政府の財政難のために明治24年、この「神戸阿利襪園」は、川崎造船所を創立して神戸川崎財閥を興した薩摩出身の川崎正蔵に売却された。正蔵は川崎造船所の初代社長に、同じく薩摩出身の31歳で後に神戸新聞を創刊した松方幸次郎を立てている。
この地に、久坂葉子(本名・川崎澄子)が昭和24年から21才で自死する昭和27年までを過ごした家があった。短いが優艶だった作家活動は、すべてこの家で営まれた。今もホテルの北隣に現存する骨董店「まるきや」は、彼女が19才のときに芥川賞候補作『ドミノのお告げ』やその原型となった『落ちてゆく世界』に登場する。戦争により没落していく男爵家が生活に困り、生活具や美術品を売りにゆく場面が、彼女の作品に流れる魂の翳りを暗示している。
久坂葉子は昭和6年、相楽園のすぐ西に接した一角で、川崎正蔵の孫で男爵家の川崎芳熊と加賀百万石、前田侯爵家の家系に繋がる久子との間に二女として生まれた。現在、この屋敷跡にはありえない縁で私が設計させていただいた建物がある。
昭和6年といえば世界大恐慌のさなか、川崎造船所があわや倒産という危機に見舞われた頃で、昭和8年には無給で社長になった平生釟三郎のもと、川崎芳熊は専務になり懸命に立て直しを計った。戦後、川崎芳熊は公職追放になったものの、久坂葉子が自死する前の年、昭和26年には神戸オリエンタルホテルの社長になっている。
川崎芳熊は神戸一中の卒業だが、下の弟たち、金蔵、芳虎、芳治も神戸一中出身で、共に苦しい時代を生きた。そんなさなか、家の内実を暴露したような久坂葉子の作品には頭を悩まし、さらに彼女の死も、とうてい受け入れることができなかったのではないかと推察する。
久坂葉子は父の影響もあり幼時からピアノ、絵画、俳句、演劇などを好み、一方では有島武郎の『或る女』の主人公、早月葉子に共感し、太宰治の没落華族を描いた『斜陽』を愛読した。小妖精の才能はその美貌の上に本来、もっと華麗に開花すべきだったと思うが、父の心の痛みにも目を向けて欲しかった。
オリーブの葉の表は光る濃緑色、裏は銀白色でとても美しい。初夏にはいい香りの小さい白い花がまとまって咲き、あっという間に満開、そして一気に散る。まるで久坂葉子のようだ。ちなみに湊川神社のオリーブの古木は「神戸阿利襪園」ゆかりの樹で、樹齢約140年、わが国最古といわれている。
生田神社名誉宮司の加藤隆久さんの『神と人との出会い、わが心の自叙伝』の中の“久坂葉子の死をめぐって”に中西勝画伯のその日の体験が綴られているのを見て、私は大いに驚かされた。若い頃とてもハンサムだった中西画伯が、本命ではなかったにせよ、彼女のボーイフレンドの一人だったとは…。
※敬称略
※『ハイカラ神戸幻視行』西秋生、『神戸阿利襪園』インターナショナルオリーブアカデミー神戸、神戸大学経済経営研究所新聞記事文庫などを参考にしました。また、一部「こうべ芸文」の拙文より転載しました。
久坂 葉子(くさか ようこ)
文筆家
1931年、川崎造船(現・川崎重工業)創立者・川崎正蔵の孫である川崎芳熊の娘として神戸で生まれる。本名は川崎澄子。神戸山手高等女学校(現・神戸山手女子中学・高等学校)卒業。相愛女子専門学校(後の相愛女子短期大学)中退。1949年、六甲在住の作家・島尾敏雄の紹介で、雑誌『VIKING』の同人となり、富士正晴に師事。久坂葉子のペンネームを用いる。『VIKING』に発表した『落ちてゆく世界』は『ドミノのお告げ』と改題され、1950年の第二十三回(上半期)芥川賞候補となる。『幾度目かの最期』を書き上げた後、1952年の大晦日に阪急六甲駅で鉄道自殺を遂げた。
瀬戸本 淳(せともと じゅん)
株式会社瀬戸本淳建築研究室 代表取締役
1947年、神戸生まれ。一級建築士・APECアーキテクト。神戸大学工学部建築学科卒業後、1977年に瀬戸本淳建築研究室を開設。以来、住まいを中心に、世良美術館・月光園鴻朧館など、様々な建築を手がけている。神戸市建築文化賞、兵庫県さわやか街づくり賞、神戸市文化活動功労賞、兵庫県まちづくり功労表彰、姫路市都市景観賞、西宮市都市景観賞、国土交通大臣表彰などを受賞