2018年
4月号
昭和20年代の片鉾池

未来永劫生き続ける清閑な住宅地「寿町」|阪急夙川の昔と今

カテゴリ:西宮, 見どころ

今〝一番住みたい街〟といわれる西宮。その中でも夙川界隈は阪神間モダニズムの中心として発展してきた。夙川の東側、大正末期から開発が進められ、夙川の清流と共に生き続ける寿町についてふれてみたい。

長く続いたのどかな田園風景

 江戸から明治にかけて、現在の寿町辺りは山林や田畑が広がる田園風景が長く続き、獅子ヶ口から結善町にかけての夙川沿いにはいくつかの水車小屋ができ、酒米精白用水車の回る音がのどかに響いていた。明治7年(1874)、官設鉄道(現JR)が開通したが汽車が行き来するだけの線路で地元に大きな影響はなかったようだ。
 その頃、寿町が属していた旧西宮町は、南は海岸沿い地域から北に向かっては夙川を西の町境とし、東は今の西宮市役所付近から、上流の銀水橋を頂点とする三角を形づくっていた。人口の大部分は堀切川と東川に挟まれた地域で現在の市庭町から与古道町の間とその南部に集中していた。江戸時代以来の森具・越木岩・越水・広田・中、さらに鷲林寺・柏堂、二つの飛地が合わさり、明治22年(1889)に誕生した大社村が三角形を取り囲んでいた。

香櫨園オープンで一気に変わった夙川の西エリア

 明治38年(1905)、阪神電車が開通した。広大な土地を所有、あるいは借り受けていた大阪の商人・香野蔵治が、海に望み、山も近く、地形に変化があり景勝地に違いないと、会社の支配人格の櫨山慶次郎とタッグを組みさらに周辺の土地を取得する。現在の殿山町・雲井町・霞町・羽衣町・相生町にまたがる丘陵地の草地や松林を切り開き道路や橋を設けるなどして整備し、明治40年(1907)、約33万平方メートルの敷地に二人の姓から一文字ずつ取り「香櫨園」を開園。ボートや水上自転車が浮かぶ内澱池(現・片鉾池)へと滑り落ちる50メートルのウオーターシュート、その先にはメリーゴーランドが回り、ゑびすホテルや茶屋、動物園、奏楽堂(音楽ステージ)などを備えた、今で言う〝一大アミューズメントパーク〟。
 しかし、大賑わいも束の間、斬新過ぎたか飽きられたか、6年間で閉園になる。施設の一部は南へ移され、以降、「香櫨園」は夙川の南部地域を指すようになる。

夙川の価値を高めた高級住宅街

 残された土地は最終的に大阪の商家が中心となって設立した大神中央土地が入手し、起伏に富んだ土地の魅力を巧みに利用して自然の地形を生かしつつ街区を設け約500~3千300平方メートルという広い区画として分譲した。昭和に入ってからその価値に目を付けた在阪・在神の外資系企業の幹部住宅が建ち並び、神戸女学院、関西学院時計台の建築で知られるウィリアム・メレル・ヴォーリズの作品も10棟ほど存在したという。
 昭和7年(1932)、建築家・安井武雄のモダニズム建築の自宅が建ったのをはじめ、インターナショナルスタイルの前田邸、大林組住宅部の泉勤一郎邸など著名な建築家による豪邸が並んだ。これら住宅の質の高さがこの地域の評価を高めるのに至ったのは確かだ。さらに、パインクレストアパートメントホテルやカトリック夙川教会などモダンなインフラも整い、阪神間を代表する住宅地として名を轟かせる。

阪急夙川駅開業で整備が進んだ夙川東エリア

 阪神急行電鉄(現・阪急電鉄)神戸線が大正9年(1920)に開通するにあたり、大神中央土地は電鉄会社に掛け合い駅設置の協約を結び、夙川駅を開業させる。駅は大社村内に位置していたが、旧西宮町としても境界の夙川の対岸に駅ができたことで、それまでの田園地帯を区画整理し、計画的な市街地開発に着手することになる。
 大正10年(1921)に西宮第二耕地整理組合を設立し、既に都市計画法が施行されていたものの実際の都市整備については耕地整理法を準用して行った結果、大正13年(1924)、夙川、JR東海道本線、阪急神戸線、札場筋で囲まれた地域が、碁盤目状の整然たる区画に生まれ変わった。幅広い道路が東西に真っすぐに延び、夙川の松林ごしに丘の上にはカトリック夙川教会の尖塔を望むハイカラな街並みが誕生した。自然環境に恵まれ、交通至便、美しく整備された街区は、インテリサラリーマン、画家や作家など多くの文化人が居を構える結果となる。
 ちなみに、この辺りには江戸時代から幾つかの酒米精白用水車が見られた。六甲山麓の水車が、灘酒の発展に大きく関わったのであろう。また、灘酒に欠かすことのできない宮水は、夙川の伏流水と六甲山の花崗岩に浸透した水に、塩分を含んだ海水が微妙に交じり合い、湧出したもので、酒造りに理想的な土地となる大きな要因になった。
 阪急電鉄では、郊外の住宅地が健康に良いことを強調した。『山容水態』というパンフレットを発行し、田園趣味に富む郊外住宅の宣伝活動を行う。この時、阪急電鉄が新聞に載せた広告のキャッチフレーズは、「坐ってゆける阪急電車」「綺麗で早うて、ガラアキ、眺めの素敵によい」であった。阪神電車は、「待たずに乗れる」であった。

「寿町」の名前の由来となった「無量寿」

 さらに、宅地開発に伴い、町名も変更されることになる。宅地開発を行う大神中央土地では、縁起の良い名称を町名にあてたようだ。そもそも西宮の町は、京都・大阪方面を結ぶ西国街道の宿駅として発展してきた。天保14年(1843)の『山崎通宿村大概帳』によると、64戸の旅籠屋があったと記されているところを見ると西宮宿は大いに賑わったようだ。そのため、街道沿いの路傍にお地蔵さんや五輪塔が多く建てられ、旅人たちは足を止め、安全を祈願した。つまり、お地蔵さんや五輪塔が建てられていたこともあり、仏の寿命ははかれないほどの長さである、限りがないという「無量寿」という言葉から「寿」の一文字をとって「寿町」と名付けられた。
 寿町の周辺にも縁起をかついだ町名が多い。町域が末広型になっている「末広町」、町域西の夙川堤にある松林は、古来、寿命の長さから愛でられてきたことから「千歳町」、中央にある一本松の枝葉が近隣の目標になるほど茂っていた「常盤町」など。名は体を表すではないが、その美しい町名の通り、街並みは清閑で気品が漂う。
 しかし、この地域はその後、戦時中の空襲で大きな被害を受けた。見事に復興するも、阪神・淡路大震災で再び甚大な被害を受け、かつての木造の建物が並ぶ趣のある街並みは消えてしまった。幾度となく壊滅的なダメージを受けながらも、夙川の清流が潤すこの関西屈指の住宅地は不死鳥のごとく蘇っている。それは、まさに「無量寿」に込められた願いの如く、豊かな自然に彩られた清閑な街として、未来永劫、生き続けていくだろう。

昭和初期の「羽衣橋」

パインクレストアパートメントホテル

昭和20年代の片鉾池

右下に見えるのが昭和50年頃の寿町。テニスコートが見えるが、その南(左)に、現在の山手幹線が整備された

碁盤目状に区画される様子が伺える。昭和7年。西宮市情報公開課所蔵

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