10月号
想い出すこと(遠藤 周作:作家)|神戸っ子アーカイブ Vol.6
想い出すこと
遠藤 周作(作家)
もともと話をするのが不得手なのと、講演などは私の本来の仕事ではないので、大低はお断わりするのだが、関西の大学から依頼されると何となく承諾してノコノコ出かけて行く。そしてそれが京都や大阪での仕事であっても事情が許す限り宿は宝塚ホテルにとる。
阪急電車に揺られながら窓の外を眺める。東京近辺の黒褐色の土をみなれた眼に赤っぽい土の色が鮮やかに映る。「ああ、帰って来たんだ」。戦争中、まだ慶応の予科生だった頃、激しい勤労奉仕と栄養失調の東京での生活に疲れ果てて帰省した時、すし詰電車の中でこの土の色をみて思わず涙をこぼしたのを思い出す。この赤褐色の土はいつみてもあたたかく豊かで大好きだ。
電車が仁川の駅にとまると、ついふらりと降りてしまう。私が住んでいたのはもう二十数年前、建物は変っても道はそう変っていない。柄にもなく感傷的な気分になって一人で歩いてみる。
むこうから犬が一匹、トコトコ駆けてくる。野良公のような風釆でスットンキョウな顔をした奴だ。それでも赤い革の首輪をつけているのでどこかの飼犬なのだろう。道に何か落ちていると噛んでみたり、道端の草に小便をひっかけたり、他の家の垣根をくぐり抜けたり、いっこう真っ直に歩こうとしない。この滑稽なワン公のあとについて歩いていると子供の頃の私はこのワン公そっくりであったことに気がつき可笑しくなってしまった。友達から「凸坊、凸坊」と呼ばれていたあの頃、学校から家までどんなにゆっくり歩いても十五分とかからない道を「周ちゃんは二時間かかって帰って来る」と母を驚き呆れさせたものだった。大きなランドセルを背負ったまま、蟻が昆虫の死骸を自分達の巣までせっせと運んでいくのを、無事にその作業が完了するまで眺めていたり、よその家の垣根のバラの蕾を一つのこさず数えてみたり、ついでに害虫も退治してやり、くたびれたら樹陰で昼寝もし、川原でめだかをおどかし、兎に角、目につくものには何でも交き合ったのだから一時間でも二時間でも経つ筈である。
学校では
「宿題やっていないものは?又、遠藤か、立っとれ」
「後で騒いでいるのは誰か?又、遠藤か、立っとれ」
兎に角、「又、遠藤か、立っとれ」と拳骨の雨で終始した。母に懇々と諭されて授業中、一生懸命、黒板をみつめ先生の言われる事を聴くのだが、どんなに努力してもさっぱりわからない。たまりかねてあたりをきょろきょろしはじめる。友だちは皆、温和しく先生の話を聴いている。前に座っている奴の首すじを尖った鉛筆でチュッチュツと突いてみる。「キャアー」驚いた友だちは、突っ拍子もない声をあげる。「ハックショイ」私はあわてて誤魔化すため嚔をする、が先生の眼は鋭くこちらをにらんでいる。
「こらぁ、又、遠藤か、お前はどうして……」
放課後、皆帰ってしまった教室で一人残された私は、さすがに悲しくなって「なんで僕はせいでもええことばかりして叱られるんやろか」と考え込んでしまった。
此頃の心理は、今考えてみてもわからない。要するに泥だらけになってほっつき歩いているワンちゃんと何らかわりがなかったのである。二つ違いの兄に今でもよく云われる話だが、雨降りの日に傘をさして如露で庭の草花に水をかけていた子供なのである。兄貴は秀才で、中学四年から一高、東大、高文というその頃の秀才コースを進んでいった男なのだから、私の馬鹿さ加減は余計めだったのだった。だが兄は私のことを心配してよくかばってくれた。そして母は唯一の保護者だった。バイオリニストを志ざしていた母は、結婚し子供ができ、二人の男の子が取っ組み合いの喧嘩をしている傍でも毎日欠かさず何時間かはバイオリンを弾いていた。何と気の強い母親なのか私がびっくりしたことがある。例によって教師になぐられ、その時は相当ひどいわるさをやったのか、前歯をへし折られて家へ帰った。それを見て母は顔色を変えて学校へどなりこんで行った。「息子を教育してもらうために学校へやっているのであって傷をつけてもらうためではない」と。「謝れ」「謝る必要ない」教師も相当頑張ったらしいが、兎に角、謝る迄はここを動きませんと座りこんだおばはんに根負けしたのか、結局、母は自分の言い分を通して引きあげてきた。
「お前は人より本を沢山読んでいるから偉い偉い」と劣等感のかたまりみたいな私をほめ、おだてて例えそれが漫画であろうと講談本であろうと本だけは欲しいだけ買い与えてくれた。
その母も今はいない。私にとって母の想い出はやはりこの仁川の月見カ丘の頃。元気な頼もしい母親がなつかしい。
1965年『神戸っ子』6月号掲載