9月号

連載エッセイ/喫茶店の書斎から 124 触読
今村 欣史
書 ・ 六車明峰
「触読(しょくどく)」という言葉をそれまで知らなかった。
神戸の点字図書館を訪れた時に対応してくださった職員さんの口から出た言葉である。
なぜわたしが点字図書館を訪れたか?
詩人、島田陽子さんの「点字」という詩に触発されたのだ。
文字を読むというのは/こんなにも優しく 真摯な行為だったろうか/私の書いた点字を/あなたの指が 一字一字たどりながら/しかし 素早く読みとってゆくとき/私は 愛されている錯覚にとらわれた/焼きものの肌に/花びらに/髪に くちびるに/ふれる指は あたたかい/ふれる指は 繊細だ/あなたの指にふれられて/はじめて命を得る文字は/その小さな隆起がつぶれるまで/幾人のあなたと出合うのか
(後略)
この詩にわたしは感動を受け、点字本を身近で見てみたくなった。もっといえば触ってみたくなった。
幸い、拙著『コーヒーカップの耳』(朝日新聞出版刊)が点字本になって神戸市立点字図書館に架蔵されている。電話で事情を話すと快く応じてくださり、さっそく出かけた。
出してくださった点字本『コーヒーカップの耳』。
真っ白な紙である。絵もない。あまりにも清潔。そこに小さな隆起が並んでいる。わずかな影を添えて。
自分が書いた本がこうして姿を変えているのを手にした時、静かな感動を覚えた。
初めてその隆起にそおっと触れてみる。
なんとなく一字一字がわかる。もちろん読めるわけではなく、凸の位置関係が思いのほか指先に伝わるということだ。
ふと、紙は真っ白でなくてもいいのではないか?という思いが頭をよぎった。視覚障害者にとっては黒でも赤でも同じことなのでは?と。もちろん、白である必要性はあるのだが。
しかしやはり白は象徴的だ。純白の中に点という光と影だけが並んでいるのが深い抽象画のようで美しい、とわたしは思う。
全て点字文字はカナだ。特殊な漢字点字はあるそうだが、基本的には一音ずつのカナである。ということはページ数が増える。原書の二倍から三倍のボリュームになるらしい。たしかに目の前の『コーヒーカップの耳』もずっしりと大きな本に生まれ変わっている。
お尋ねしてみた。
「障害者の方が読んでおられるところを見たいのですがそんな機会はないですよね?」と。すると、
「こういった、他人がいる所で読まれることはあまりありませんね。希望に応じて郵送することが多く、お家で読まれますから」とのこと。
ところで点字本の制作には、著作権法で著者の許諾を必要としないと定められている。だからわたしの本も知らぬうちにそうなっていたわけだ。著者のあずかり知らぬところで、誰かのために姿を変えていたのだ。
何枚か写真を撮らせてもらい、帰宅してから読んでみた。といってもわたしにわかるわけがない。戴いて帰った点字一覧表を見ながらである。
表題のページ。
実物ではないので写真の隆起の影を目で追いながらである。
「イマムラキンジ チョ」とたどたどしく読めた。ちょっと感動的。
そして、「コーヒーカップノミミ」と読めた。
しかし大変だ。単に点字文字を覚えるだけでなく、記号や数字、アルファベットなども覚えなくてはならない。スラスラと読めるようになるには、個人差があるが一年から一年半ほどの継続的な訓練が必要なようだ。さらに、漢字がないということは、文学作品などはより豊かな想像力が必要だろう。前後の文脈から同音異義語を判断し、想像するということだから。一般の健常者よりも神経や感性が研ぎ澄まされるにちがいない。
あの真っ白で清潔な本。一人でも多くの人の指先で「触読」してもらえることを願う。

(実寸タテ16㎝ × ヨコ9㎝)
六車明峰(むぐるま・めいほう)
一九五五年香川県生まれ。名筆研究会・代表者。「半どんの会」会員。こうべ芸文会員。神戸新聞明石文化教室講師。
今村欣史(いまむら・きんじ)
兵庫県生まれ。兵庫県現代詩協会会員。「半どんの会」会員。著書に『触媒のうた』―宮崎修二朗翁の文学史秘話―(神戸新聞総合出版センター)、『コーヒーカップの耳』(編集工房ノア)、『完本 コーヒーカップの耳』(朝日新聞出版)、随筆集『湯気の向こうから』(私家版)ほか。












