9月号
有馬温泉歴史人物帖 ~其の四拾弐~ 藤原 惺窩(ふじわら せいか)1561~1619
江戸時代の学問の王道は儒学の朱子学ですが、これを日本で発展させたのが冷泉家出身で、有馬大好き歌人の藤原定家から数えて11世代めの子孫にあたる藤原惺窩大先生でございます。
惺窩さんの故郷は1200年頃に定家の父、俊成に与えられ、その後冷泉家が代々守ってきた庄園、細川庄。現在はゴルフ場に挟まれている三木市細川町一帯です。次男ゆえ坊さんになれと7歳の頃に本連載其の拾六の雪村友梅(せっそんゆうばい)に通じる一山(いっさん)派の寺院、龍野の景雲寺へ。ここで親しくなったのが後に支援者となる赤松広通ですが、彼は其の拾四の赤松則祐(そくゆう)の末裔でございます。
ところが1578年、織田方に反旗を翻した三木城主の別所長治が細川庄を急襲!パパと兄が殺されちゃう。すでに聡明な青年僧に成長していた惺窩さんはママと弟を連れて京都へ逃れ、この地で儒学を学びその才覚がメジャーに。1592年には豊臣秀俊=後に其の参拾参の小早川隆景の養子となる小早川秀秋に従い文禄の役の講和使として九州の名護屋へ。ここで高い学識が家康のハートを掴み、後日江戸へご招待。で、お仕事で明の使者と面会すると大陸への思いを強くしちゃい、4年後に儒学の本場へ渡るぞ!と大海原へ。でも嵐に遭い鬼界島、たぶん現在の鹿児島県硫黄島(いおうじま)へ漂着し断念…。
大人しく京都に戻った惺窩さんは捕虜となっていた朝鮮の朱子学の大家、姜沆(きょうこう)と交流し学びを深めたこともあり学者としての地位を確立、アンチ家康の石田三成からも声がかかるなど大名連中に大人気!江戸時代になると多くの優秀な朱子学者を育てつつ万葉集や土佐日記などにも関心を抱き、詩歌にも興ずるなど京の街はずれの山荘を拠点にマルチに活動したのでした。
そんな惺窩さんは1580年、20歳の頃に有馬温泉を訪ねていますが、どうやらそれまでにも何回か来湯していたようです。手足のしびれを癒やすためで、記録によるとその原因は風病、つまり脳卒中とありますが、まだ若いしもしかしたらただのビタミンB群不足だったかもね。来訪時に漢詩を詠んでございまして、その一部をご紹介すると…疑到江浜泉脉通=まるで海辺まで地下の水脈が通じているのかもと神秘を感じ、遠自医王仏界来=医王仏の世界から流れ来たかのようだと泉質を高く評価し、此処行基奇巧多=行基の不思議な事績が多く伝わると歴史にも触れ、驪岫馬山何是優=驪山(りざん)や馬山(ばさん)といった唐の名湯よりも優れていると有馬温泉を絶賛!まるで観光パンフみたいでございますね。
そんな感じで多くの人に有馬を推していたのか、惺窩さんと近しい人物も多く有馬を訪ねてございます。それは次回以降。













