2026年
9月号

⊘ 物語が始まる ⊘THE STORY BEGINS – vol.70 
■テノール歌手■ 秋川 雅史さん

カテゴリ:文化・芸術・音楽

新作の小説や映画に新譜…。これら創作物が、漫然とこの世に生まれることはない。いずれも創作者たちが大切に温め蓄えてきたアイデアや知識を駆使し、紡ぎ出された想像力の結晶だ。「新たな物語が始まる瞬間を見てみたい」。そんな好奇心の赴くままに創作秘話を聞きにゆこう。第70回は、ミリオンセラーの名曲「千の風になって」のシングルリリースから今年20周年を迎え、その節目の記念コンサートに意気込むテノール歌手、秋川雅史の登場です。

文・戸津井 康之

歌う責任と重圧、そして覚悟……まだまだ成長の途上

急成長を自覚

「20年前よりも、今の方が確実にうまくなっています。まだまだ成長し続けていることを実感します」
こう語る秋川の表情は自信に満ちていた。
今から20年前の2006年5月。「千の風になって」はシングルカットされ、世にリリースされた。以来、全国のコンサート会場やテレビ番組などで数えきれないほど、この曲を歌い続けてきた。
さらに続けた言葉に、プロの歌い手としての矜持がひしひしと伝わる。
「まだまだ成長する。今よりも、もっと上手く歌いたい」
毎回、歌うたびに、これまでで最高の歌を観衆に届けたい―。そう願って全身全霊で歌っているのだ、とも。
以前、取材した際、「テノール歌手の全盛期は50代に入ってから」と語っていた。
現在58歳。
「実は50代中盤以降、ここ1~2年で急成長していることを感じています。若いころからの課題だった〝脱力〟して歌うことの本当の意味がようやく掴めてきたんです」

歌い続ける普遍の名曲

20年の時を経て「千の風になって」は今、世代を超えた国民的人気の一曲に数えられる。
だからこそ、「歌うことの責任は重く、軽々しくは歌えない」と語る秋川が、いかにこの曲に強い思い入れを抱きながら生きてきたか。
今年のツアーの冠に付けたタイトルからも、その意気込みが伺える。メモリアルツアー『「千の風になって」20周年記念コンサート』が、9月5日、兵庫の神戸新聞松方ホールで、10月24日、大阪の住友生命いずみホールで開催される。
このツアーで心に決めている〝ある試み〟がある。
そのひとつは、「マイクを使わない」こと。
この理由を尋ねた。
「クラシック音楽が生まれた時代にはマイクなどありませんでしたからね。もちろん、現在は当時、存在しなかった大規模なホールやドームなどの大会場があり、マイクが必要なときはあります。しかし、今でもオペラ歌手の理想は生の歌声で歌い、生の歌声を観客のみなさんへ届けることだと思っています」
さらに、今回のツアーでは、こんな試みも準備されている。
その構想の一端を明かしてくれた。
「一人の男性を主人公に6曲の歌で、ひとつのストーリーが進行していきます。6曲はすべてカバー曲で、最後の曲は『瑠璃色の地球』です」と語る。
一人の男性が旅する姿を、6曲の歌で綴ってゆくのだという。旅をしめくくるラストの曲は人気歌手、松田聖子のヒット曲「瑠璃色の地球」…。
想像するだけで、情感豊かな秋川の歌声で紡がれる壮大な旅の光景が目の前に広がってくるようだ。
「この6曲でストーリー仕立てにしてコンサートで披露するのは、実は初めての試みなんです」
曲目はポップスなど現代音楽から選ばれるが、その世界観はまるでオペラのようである。

歌う責務と矜持

コンサートでは、もちろん「千の風になって」が披露される。「もちろん、マイクなしで…」と秋川が笑みを浮かべた。
初めて「千の風になって」を歌ったきっかけはこうだった。
「お客さんからコンサートで聴きたい曲をリクエストしてもらったんです。そのなかに『千の風になって』がありました。アンコールのときに歌いました」と振り返る。
すると多くの観客が涙を流し始めたという。
「コンサートで、そんな光景を見るのは初めてのことでした」
2005年、「千の風になって」はアルバム「威風堂々」のなかの一曲として収録された。
徐々に反響が出始め、2006年5月にシングル曲として世に出すと、さらに話題となり、同年暮れ、NHK紅白歌合戦に初出場する。
人気は爆発的に広がり、オリコン・シングルチャートで一位に躍り出る。
オペラ歌手が歌う曲がシングルチャートで年間一位に輝くのは史上初という快挙だった。
「最初は数千枚しか売れていなかったのが、現在では累計130万枚です」
この歌の詩は米国発祥とされるが、作者は不詳。音楽家で芥川賞作家の新井満が翻訳と作曲を手掛けた。
「まだ、この曲がヒットする前。新井さんからこう言われました。『この曲は100年、200年と歌い継がれていってほしい。なぜなら人が亡くならないということは、この先もずっとないのですから』と」
さらに、「この曲が大ヒットした後、新井さんからこう言われました」と秋川はこう続けた。
「ヒットしたことを、ただ喜んではいけない。この曲の向こう側には亡くなった多くの人たちの命があることを忘れてはいけないから…」と。
コロナ禍、コンサートが開催できず、歌う場を失った秋川のことを気にかけ、心配していた新井は2021年に死去した。
秋川へこの曲を託して…。

彫刻への情熱

オペラ歌手の一方で、2010年以降、彫刻に取り組んでいる。
きっかけは今から16年前。ドイツで鷹の彫刻を買ったときにこう思ったという。「自分も彫ることができるかもしれない」と。
以来、毎日、彫刻と向き合い、技術を磨き、2021年からは、「二科展」の彫刻部門に5年連続で入選している。
「もちろん今年も応募しますよ」と話し、近年、挑んでいるテーマは〝対決〟だとも。
2023年はカエルとヘビの戦いを彫った「木彫蛙と蛇」。昨年はカブトムシとクワガタの戦いを作品にした「木彫アクティオンゾウカブトとスマトラオオヒラタクワガタ」で入選を果たしている。
今、取り組んでいる新作は「ナイルワニ対アナコンダの戦い」だという。
コンサートツアーなど音楽活動を続けながら一年に一作、新作の彫刻を完成させてきた。この〝二刀流〟の継続は並大抵の努力では成し得ないと想像できるが、「毎年、二科展に出展するという目標が決まっているから毎日、続けることができるのです」と話す。
毎日欠かさず歌のレッスンを行うとともに毎日、彫刻刀を握る。日々のスケジュールはハードだ。
歌のレッスンと彫刻の作業に加え、毎日約3キロ走り、週に数回、エアロバイクをこぎ、背筋を鍛え、週1回は肺活量を鍛えるためにスイミングで約600メートルの潜水を行う。
テノール歌手としての強靭な肉体を保持するために心身を極限まで追い込む生活を続けている。その姿はまるで屈強なアスリートか、修行僧のようである。

愛媛から世界へ

テノール歌手となって、長年抱いてきた大きな目標のひとつに今年の夏、挑んだ。
イタリアの作曲家、ジュゼッペ・ヴェルディが作曲したオペラ「オテロ」だ。
世界三大テノール歌手と称されたルチアーノ・パヴァロッティ、プラシド・ドミンゴ、ホセ・カレーラス。「三人のなかで唯一人、ドミンゴだけが挑み続けたのが『オテロ』でした」。このオペラに対し、秋川は「オテロ役で出演する」とは言わず、「オテロ役に挑戦したい」と語ったのが印象的だった。ベテランのテノール歌手にとってさえ、いかに難しいオペラであるかが想像できる。この「オテロ」に今年7月、秋川は初めて挑んだ。
「世界中のテノール歌手が憧れるのがオテロ。私もずっと挑戦したいと思いながらも躊躇してきました。しかし、今ならできる…。逆に今やらなければ、今後、できないかもしれない」と並々ならぬ覚悟で挑んだという。
オペラに彫刻。さらに、もう一つ全身全霊で打ち込んできたことがある。
愛媛県西条市の出身。地元には江戸時代から続く伝統の西条だんじり祭りがある。
強い郷土愛を持つ秋川は、どんなに忙しくても、多忙なスケジュールを縫い、「西条だんじり祭りには必ず毎年参加してきました。皆勤賞を続けています」と笑顔で語る。
彫刻への興味も、実は16年前に突然沸き起こったものではない。幼いころから親しんできた地元のだんじりの彫り物に魅せられていたのだ。
「祭りがある10月15日。この日は西条の人たちにとって正月。一年の始まりなんです。私もこの日を一年の起点にしています」
現在、米メジャーリーグで大谷翔平ら日本のプロ野球選手が活躍し、サッカーW杯で日本が大健闘するなど、日本のアスリートが世界の第一線で渡り合う姿が珍しくなくなっているが、30年以上前にオペラの本場、イタリアへ単身留学し闘ってきた日本人がいた…。
繊細さと豪放磊落さを兼ね備えた唯一無二の日本のテノール歌手、秋川雅史は魂を込めた歌声で聴く人の心を震わせ続ける。

コンサートではマイクを使わず歌うのが、秋川雅史のスタイルだ(本人提供)

名曲『千の風になって』にまつわる秘話を熱く語る秋川雅史

日々の歌の練習と同様、秋川雅史は「毎日、彫刻刀を握る」という(本人提供)

オペラ、彫刻、西条だんじり祭り…。すべてにおいて「全身全霊で挑みたい」という

秋川 雅史(あきかわ・まさふみ)

テノール歌手。
1967年、愛媛県西条市生まれ。国立音楽大学大学院修了後、イタリアのパルマに留学。2001年、アルバム「パッシオーネ 復活の歌声」でテノール歌手としてCDデビュー。
2006年、「千の風になって」をシングルでリリースし、全国に人気が広がる。同年、NHK紅白歌合戦に初出場。クラシックとポピュラーを組み合わせたクラシカル・クロスオーバーの代表的歌手として広く活躍している。『「千の風になって」20周年記念コンサート』は9月5日=兵庫・神戸新聞松方ホールで、10月24日=大阪・住友生命いずみホールで開演。

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