6月号
神戸偉人伝外伝 ~知られざる偉業~ (74)後編
司馬遼太郎
被災者たちへの〝ラブレター〟…神戸へのラストメッセージ
言葉のエール
今から30年前の1996年2月12日、作家、司馬遼太郎は大阪市内の病院で72歳で亡くなる。
その約一年前。司馬は、神戸へ向けて、こんな一文を遺している。
タイトルは、その名も「世界にただ一つの神戸」。
《神戸に、自立した市民を感じた。世界の他の都市なら、パニックにおちいっても当然なのに、神戸の市民はそうではなかった》
司馬が死去する一年前の1995年1月17日。阪神・淡路大震災が発生したのだ。彼は、大阪でこの大地震に見舞われた。
震災後、司馬はすぐに本書(「月刊神戸っ子」=1995年2・3月号)に被災者たちを励ます文章を寄稿している。それが、この「世界にただ一つの神戸」だ。
《当方は大阪にいて、連日、神戸の惨禍の報道に漬かっていて、自分が被災者でないことが申しわけないという気持ちでいた…》
こんな出だしで始まる寄稿には、神戸の被災者たちのために、司馬は居ても立ってもいられずペンを執った様子が伺える。
《神戸。
あの美しくて、歩いているだけで気分のよかった神戸が、こんどはいっそう美しく回復する上で、この精神は基本財産として役立つに相違ない》
被災した〝神戸っ子たち〟を、言葉の力で何とか励ましたいという思いに満ちている。
震災から6年後の2001年。
神戸出身の作家、陳舜臣を始め、小松左京や藤本義一ら、関西の作家たちが寄せた文章を集めた『作家たちの大震災 阪神・淡路大震災一九九五・一・一七』(「月刊 神戸っ子」刊)のなかに、この司馬の寄稿文も収録されている。
神戸での邂逅
この書のなかには、司馬と神戸とのかかわりを知ることができる、こんな興味深い一文も収録されている。
タイトルは「市民の尊厳」(1995年1月30日、産経新聞朝刊「風塵抄」掲載)。
《十年ほど前、神戸を知りたいと思い、陳舜臣さんに頼んで、じつに気分のいい集いにまじることができた。いまも終生の思い出になっている》
ここで登場する陳舜臣と司馬は、ともに大阪外国語学校(現在の大阪大学外国語学部)で学んだ。陳が司馬の一年先輩だが、二人の親交は卒業後も続いていた。
お互いに作家となってからも…。
司馬が陳に誘ってもらった集いの場には、こんな面々がいた。
《チョコレートのモロゾフさんが、陽気なアメリカ開拓者のように、たえず笑っていた。
モロゾフさんも、本来、ロシア革命の難民だった。幼いころ、両親とともに神戸にのがれてきた》
大阪外国語学校の同窓生、陳徳仁氏もこの集まりの主要なメンバーの一人だった。
《この一座で、華僑の徳望家の陳徳仁さんは、幼児、神戸で科挙の試験の受験勉強をさせられたという話をした》
台湾出身の両親のもと、神戸で生まれ育ち、作家となった陳舜臣。同じく神戸で生まれ、華僑の家系で育った陳徳仁。ロシアで生まれ、家族とともに神戸へ移住し、洋菓子店を神戸で興したモロゾフ…。
神戸から、それぞれの役割を担って、戦後の日本を立て直した苦労人たちが一堂に集う、そんな場に〝歴史の証言者〟の司馬もいた。
神戸だからこそ出会えた〝神戸の開拓者たち〟との交流に心弾ませる司馬の笑顔が目の前に臨場感豊かに浮かんでくる。
「神戸を誇らしげに語る」彼の言葉は続く。
《みな太平洋戦争の末期の空襲を経験されて、生き残った。全員が神戸が好きで、神戸という共和国がこの世にあるみたいだった》
この〝楽しいひととき〟から約10年後…。
未曾有の大震災が、司馬がたとえた平和な「神戸という共和国」を襲ったのだ。
衝撃を受けた司馬は、こう吐露する。
《私は、呆(ほう)けたように、連日報道まみれの暮らしをした。
感動しつづけたのは、ひとびとの表情だった。神戸だけでなく、西宮、芦屋など摂津の町々のひとたちをふくめ、たれもが人間の尊厳をうしなっていなかった》
亡くなる一年前に、こんな神戸の惨状を目の当りにするとは想像もしなかっただろう。
再び、「世界にただ一つの神戸」を振り返ってみたい。
その締めくくりの一文は、淡々とした文章で数々の名エッセイを遺した歴史作家に珍しく感情がむき出しになっている。
第二次世界大戦下、戦車兵として戦地へ赴き、新聞記者として事件や事故と向き合い、作家として歴史の栄枯盛衰に迫ってきた…。彼は幾多の人の命、生死を見つめ続けてきた。
司馬は大震災と対峙するなかで、詩のような表現でこう綴っている。
《神戸。
と私はつぶやきつづけている。
やさしい心根の上に立った美しい神戸が、世界にただ一つの神戸が、きっとこの灰塵の中から生まれてくる》
擬人化した神戸を恋人のように慕うラブレターのようでもある。そんな〝恋人〟の人生の再生を願うラストメッセージは、30年以上が経った今、読み見返しても胸に染みる。
司馬の寄稿文を当時の「神戸っ子」編集部は号外にして神戸で配った。翌年、この号外は遺族の手で司馬の棺に納められたという。=終わり。
次は水木しげる。
(戸津井康之)












