1月号
神戸 旧居留地ものがたり Vol.5
居留地のドイツ商会
一八六八年(慶応三年)に神戸が開港されると、その翌日には初の外国商船としてドイツ(当時プロイセン)の汽帆船ハヨー号が横浜から入港しました。最初に来神した外国商人には、すでに長崎や横浜で商業活動をしていたイギリス商人グラバーらと並んでドイツ商人のグッチョーやクニフラーらがいました。一八六八年七月から四回行われた居留地の永代借地権の競売では全一二六区画のうちドイツ人は二十三区画を購入し、イギリス人に次ぐ二番目の多さでした。すでに横浜で初の外国商社として設立されたクニフラー商会も第一回目の競売で運上所(当時の税関)に近い居留地十二番を最高値で落札しました。競売で居留地に土地を得たドイツ人の多くは、クニフラーのように、すでに長崎や横浜や中国沿岸の港で商業活動をしていました。
神戸在住のドイツ人は年とともに増加し、ドイツ人コミュニティーが形成され、開港半年後にはドイツ人の倶楽部「クラブ・ユニオン」が設立されました。ドイツ人社会は神戸の外国人社会の中で有力な地位を形成していきました。
居留地を購入した初期のドイツ商会の多くは、その土地建物や事業を他のドイツ商会に譲渡・継承されていきました。クニフラー商会も一八八〇年にその事業をイリス商会に譲渡しました。このような譲渡の多くは単に社名の変更にとどまらず、事業内容の変更をも意味しています。幕末・維新期からの外国商会は鉄砲や艦船などの軍需品を売りつけることにより、樟脳などの日本の輸出産品を確保して輸出するという形態をとってきましたが、次第に保険や海運などの代理店としての手数料収入を軸とする貿易業務を展開していくようになりました。またドイツを中心とするヨーロッパのメーカー製品を日本市場に売り込むようになって行きました。
ドイツは国家としての政治的統一が遅れたために、東アジアへの進出にも出遅れました。そのためにドイツは、すでにイギリスなどによって独占されていた紡績品や茶の市場とは異なる新たな化学工業分野での市場を開拓するようになりました。合成染料や染料技術、アスピリンに代表される医薬品などを扱うバイエルなどのドイツ商会が神戸に設立されました。
一九一四(大正三)年勃発の第一次世界大戦は神戸のドイツ商館に多大な影響を及ぼしました。三宮駅で青島へ出兵する神戸在住のドイツ兵十三名の壮行会が行われました。ドイツの商館は戦前には大きな資本で盛んに各国と取引を行い、店員の待遇も良かったが、戦争により本国からの送金が途絶え、店員の給与支払にも窮している様子を当時の新聞が伝えています。またヴェルサイユ講和条約の調印を前に日本政府により在留ドイツ人の財産が管理されることになりました。「最初日本政府は在留ドイツ人の生命財産はどこまでも保護すると言っていたので安心していたが、次第に旅行の干渉や敵に対する取引の禁止令が出て、商売ができなくなってしまった。平和が回復された矢先の今度の財産管理令で、自分の財産も自由に扱うこともできなくなった。こんなことなら、初めから中立国にいたほうが良かった」というボヤキも当時の新聞は伝えています。大戦後は旧居留地そのものが大きな変化を来たし、日本企業が全面的に旧居留地に進出するようになりました。
一八六一年に日普修好通商条約が結ばれて、今年は一五〇年目になります。神戸日独協会は「日独交流一五〇周年」を記念して、講演会と展示「神戸での日独交流一五〇年~過去、現在、そして未来へ」を、先月、兵庫県立美術館で開催しました。
枡田 義一(ますだ よしかず)
神戸大学教授
NPO法人神戸日独協会副会長(会長代行)
阪神ドイツ文学会会長(兼日本独文学会阪神支部長)