3月号
兵庫ゆかりの伝説浮世絵 第四十九回
中右 瑛
「七生報国」大楠公・湊川で死す
今から約680年前、楠木正成は兵庫「湊川の戦い」で足利尊氏の大軍に敗れ、「七生報国」即ち後醍醐天皇に「死して七たび生まれ変わり、国のために賊を滅ぼさん!」と誓いながら、この地で果てた。延元元年(1336)五月二十五日のこと。
この戦いは世に「湊川大合戦」と呼ばれるものである。
後世、元禄の頃、水戸義公徳川光圀(水戸黄門)がこの地を訪れたとき、忠臣・正成の墓標の荒廃を嘆き、「嗚呼、忠臣楠子之墓」と自ら署して、墓所を建てたという。
近代になって正成の忠臣な業績が注目され、明治五年五月、明治天皇のおぼしめしによって、その墓所に神社が建立された。JR神戸駅の近くにある湊川神社がそれである。
楠木正成公は、永仁二年(1294)、大阪南河内に生まれ、地方の一豪族の子として育ったが、三十七歳のとき、後醍醐天皇との不思議な出会いから天皇に忠誠を誓い、その生涯を全うした。
元弘元年(1331)、鎌倉幕府の北条軍が京に攻め入り、後醍醐天皇は傘置山に逃れた。世に「元弘の変」という。そのおり天皇は「南に枝を伸ばした常盤木」の夢を見たのである。すなわち「楠」のことで、正成が呼び出された。それが天皇と正成との出会いである。以降、天皇を守護し、度重なる戦いにおいて奇策戦法をもって北条軍を打ち破った。
正成は、平氏、源氏、北条氏と武家政権が続いたことを嘆き、天皇みずからが政治を行うのが正しい。この理念をもって後醍醐天皇に奉じ、遂に鎌倉幕府・北条氏を倒したのである。
これより天皇政治復活となった。このことは、「建武の中興」(1334)といわれている。しかし、源氏の再興を目指す足利尊氏が反乱軍を挙げたが京では大敗、九州にまで逃れ再び大軍を擁して京に攻め入る途中、「湊川の戦い」で正成軍と対戦した。正成軍はたったの七百人、尊氏の数万人余りの軍勢に忽ちのうちに敗れ去ったのである。正成の弟・正季と共に自刃して果てた。正成43歳。
正成は後醍醐天皇のお召しに応じ挙兵して以来、湊川で死するまでわずか五年足らずの間の活躍であったが、後世に名をとどめた。
正成亡き後、天皇は吉野に逃れ南朝政権を樹立、これにより長期におよぶ南北朝闘争が始まるのである。
複雑な南北二つの天皇系譜に翻弄され、時代によってさまざまに評価された正成であったが、明治以降は興国の忠臣としてあがめ奉られている。
正成討死の直前、子の正行との「桜井の別れ」は父と子の涙を誘う惜別の名場面としてよく知られている。湊川への出陣を控え、すでに覚悟を決めていた正成は、河内より正行を呼び寄せ、
「湊川で迎える合戦こそ天下分け目の勝負、生きて再び汝の顔を見ることもこれ限り、我は死すとも必ずや生き残って天皇に忠誠を尽くせよ!」
と菊水の一刀を手渡した。まだ十一歳の正行は
「父と共に討死せん!」と願ったが、父に諭され故郷に帰っていった。
正行は、父の死後も南朝に仕え、正平三年(1348)、二十四歳のとき、四条畷の戦いで花と散った。
■中右瑛(なかう・えい)
抽象画家。浮世絵・夢二エッセイスト。1934年生まれ、神戸市在住。行動美術展において奨励賞、新人賞、会友賞、行動美術賞受賞。浮世絵内山賞、半どん現代美術賞、兵庫県文化賞、神戸市文化賞、地域文化功労者文部科学大臣表彰など受賞。現在、行動美術協会会員、国際浮世絵学会常任理事。著書多数。