1月号
㊎柴田音吉洋服店 起業150周年
伝説のテーラー ㊎柴田音吉洋服店、健在なり!
起業150年を迎える
昨年、神戸港は開港150年を迎えた。港とともに神戸元町で150年、近代洋服の歴史を刻んできた「柴田音吉洋服店」が今、注目されている。
神戸市ホームページ「神戸開港150年・神戸なるほど歴史館」で「GOLF」「COFFEE」「JAZZ」などと並ぶコンテンツの一つ「CLOTHES」の中で「上質な神戸洋服」として柴田音吉洋服店が紹介されている。明治2年(1869年)イギリスの洋服商カペルが居留地16番にテーラーを開いたのが神戸洋服のはじまり。柴田音吉は、同年、カペルの一番弟子として修行し、日本人初のテーラーとなりました。(中略)明治16年(1883年)に元町3丁目で合名会社をつくり、型崩れしない上質な洋服を提供。他店の2倍以上の値段がするにもかかわらず大きな評判になりました。そして明治天皇陛下のお召し服や伊藤博文公などの洋服も仕立てた一流の職人でした(後略)」
平成の苦難の時代を乗り越えて
三代・柴田音吉さんは平成2年(1990年)、5代目社長に就任した。柴田グループ最盛期、そのファッションセンスとクリエイション力で手腕を発揮したものの、阪神・淡路大震災、景気低迷、バブル崩壊と苦難の時代が続き、事業は縮小せざるを得なくなった。そんな中でも柴田音吉洋服店の方針である「最後の一針まで一人の職人が縫う」を守り、テーラーの原点である「ビスポーク・スタイル」を取り入れ、「スタイル・オーダー」「ライト・フィット」を提案するなど、洋服業界に新しい風を起こしてきた。4つのキーワードについてお聞きした。
―「最後の一針まで一人の職人が縫う」とは
柴田のジャケット製法工程は、仮縫いの後28時間かけて仕上げます。そのうち26時間が手縫いの工程ですが、職人はそれぞれ針のテンションが違い、縫い方にも特徴があります。そこで一人の職人が最後まで手がけることで着心地が良く、型崩れしない服ができるのです。
―「ビスポーク・スタイル」とは
ロンドン・サビルロウのテーラーの源流に戻ったビジネスモデルで、阪神・淡路大震災で全壊した店舗ビル建て替えにあたって取り入れました。2階をサロン風に作り変えご来店は予約制とし、お客様と丁寧にお話し合いをしながら、オーダーを頂くスタイルです。
―「スタイル・オーダー」とは
私は22歳で洋服店に入り、初めてスーツを仕立てました。仮縫いのとき工場長から「どうですか?」と聞かれ、当時の私にはどのような仕上がりになるのかが分からず「お任せします」としか言いようがないという経験をして以来、何か良い方法はないかとずっと考えていました。そこで、40歳を過ぎてひらめいたのが、仮縫いの次の段階、ほとんど完成形に近い中仮縫いの状態での「スタイリング・イメージ」と呼ぶサンプル服を作り、店頭にディスプレイし、お客様はその中から試着してみて肩幅がフィットするものを選び、次に胸回り腰回り、上着丈・袖丈などを体型に合わせて補正していく方法です。出来上がりはフル・オーダーに近いフィット感が得られます。
―「ライト・フィット」とは
1970年代、ヨーロッパから裏地が付いていないシャツのようなアンコン・スーツが日本に入ってきましたが、それ以前の60年代から当店では既に超軽量で涼しい夏のスーツ「クール・スーツ」を作っていました。愛用いただく常連のお客様から「冬の軽量スーツはできないのか」という要望を頂き、「確かにそういえば」と同感しました。そこで、ほとんど裏地が付いていない「ライト・フィット」を開発し、平成21年(2009年)に販売を開始しました。究極の軽さでストレスを感じさせず、しかもお洒落なジャケットで大好評です。
柴田家5代にわたる〝初めて〟ストーリー
テーラー起業150年、柴田音吉洋服店創業135年。柴田ファミリー&カンパニーに数多く存在する 〝初めて〟 をキーワードにして、その歴史を辿ってみた。
【創業者 初代・柴田音吉】
日本で最古の近代洋服テーラーの、一番弟子
初代・柴田音吉は明治という新しい時代の幕開けを前に、15歳で神戸にやってきた。近江商人の家に生まれ、10歳の頃から裁縫の勉強をしていた音吉は、明治2年(1869年)居留地16番地に英国人のカペル氏が開いた〝日本最古〟の近代洋服テーラーの一番弟子となる。同年17歳で元町3丁目辺りに工房を開き、兵庫県知事の伊藤博文公が柴田の洋服の着心地良さに魅せられ愛用したというのは有名な話。31歳で念願叶って独立し「柴田音吉洋服店」を創業した。平成20年(2008年)の日英協会150周年記念冊子『ヒューマン・ブリッジ』でも〝日本人初〟のテーラーとして紹介され、当時の写真は大英博物館に保存されている。
日本初の世界旅行へと旅立つ
音吉の〝初めて〟はまだまだ続く。カペル氏の店舗の目と鼻の先、神戸オリエンタルホテルにオープンした〝神戸最古〟のコーヒーショップでカペル氏と共に英国式のティータイムを過ごし、レストランで西洋の食にも親しんだ。こんなハイカラな時間を過ごし、西洋文化に触れた職人は日本人〝初めて〟ではないだろうか。この経験が、明治41年(1908年)、音吉50代半ば、3月18日横浜出港、6月21日敦賀帰港という長期間にわたる〝日本初〟の世界一周の船旅参加につながった。この旅行で音吉はロンドンで毛織物商社「ドーメル社」との商談をまとめ、日本人として〝初めて〟毛織物の輸入・販売を手掛ける。この事業は二代・音吉へと引き継がれていく。
【2代目 柴田友蔵】
2代目・柴田友蔵は、テーラーの経営をする傍ら北海道開拓に着手し北海林業㈱を設立。最盛期には神戸付近と全国に10カ所の製材所を有し大きな財をもたらした。会下山に居を構え、長男・享一は、大倉喜八郎の孫娘と結婚し、大倉財閥とのパイプを作り、その後市会議員を務めるなど柴田家の繁栄に貢献した。
【3代目 二代・柴田音吉】
柴田家きっての初物好き
歴代きっての「初物好き」だったというのが二代・音吉。東京外国語学校(現・東京外国語大学)フランス語学科出身、毛織物関係では〝初めて〟の政府派遣留学生としてフランスに渡った。その語学力と高い見識、欧州での人脈を見込まれて初代の孫娘千代と結婚し柴田家に入り、大正12年(1923年)、初代・音吉没後にその名跡を継ぎ3代目社長に就任した。何事にも精力的に取り組みやり遂げる音吉は、日本人初、ロンドンに毛織物の仕入れ事務所を開き、初代が道筋を付けた『ドーメル社』との輸入契約を軌道にのせ、発展させる。音吉は企業経営に手腕を発揮しただけではなく、自身の趣味も楽しんだ。英国製スクナー型ヨットを輸入し、神戸の日本人で〝初めて〟瀬戸内海クルージングを楽しんだのも音吉だった。さらに2代目・音吉は、初代・音吉の功績を称え、洋服商人として〝初めて〟高野山表参道に柴田家の墓を建てた。
【4代目 柴田高明】
戦後、事業の再建復興に励む
早逝した3代目の後を受け、旧制・神戸大学在学中に家業を継いだのが4代目の高明。特に財務関係の手腕に長け、「哲学者になりたかった」というほど論理的思考力に優れた高明は、戦後の混乱期、音吉の名跡を継ぐ余裕もないままに、事業の再建復興に励んだ。柴田商事㈱を設立し、〝戦後初〟欧州の「ペロ」「ピルツ」「ハウザーマン」「アクアスキュータム」などプレタポルテ・用品雑貨の輸入を始め、軌道にのせた。戦時中は取引が途絶えていたドーメル社とは、〝業界初〟の合弁会社柴田ブリティッシュ・テキスタイル㈱を発足させ、当時、世界で最大のマーケット日本における『ドーメル社』のシェア拡大に努め、世界最大の毛織物商社に発展させた功績は大きい。
【5代目 三代・柴田音吉】
現社長で、平成2年(1990年)に襲名した三代・音吉は甲南大学時代、テニスプレーヤーとして活躍しプロを目指すことも考えたが、ファッションセンスに秀でお洒落な祖父、二代・音吉への憧れもあり家業を継ぐ決心をする。輸入紳士服地の企画・プロデュースに才能を発揮し、金門㈱を立ち上げ毛織物卸商として〝業界初〟イタリア・ミラノにバイイング・オフィスを開設した。平成7年(1995年)〝世界初〟のアイデアで「スタイル・オーダー」を提案。東京帝国ホテルアーケードに「欧風館」をオープンしたのを皮切りに、ジバンシィ、クリツィア、リチャード・ジェームスとライセンス契約を結び、三越、高島屋など百貨店でもコーナーを設け高い評価を得た。平成21年(2009年)には〝史上初〟の超軽量ジャケット「ライト・フィット」テーラード・ジャケットを提案し、登録商標を済ませ、平成24年(2012年)実用新案特許が認められる。
起業150年を迎え、戦災、バブル経済崩壊、震災などの苦境に負けず、さらに逞しく健在ぶりを発揮する柴田音吉洋服店。その理由は、商売の大きさではなく高品質の商品づくりに徹する姿にあると感じます。その姿は、『月刊神戸っ子』にとっても誇りに感じます。
柴田 音吉(しばた おときち)
株式会社柴田音吉商店 五代目社長
甲南大学経営学部卒業。神戸ロータリークラブ会員。神戸JCシニアクラブ会員。オール甲南テニスクラブ会員。廣野ゴルフ倶楽部会員