2012年
12月号
鈴木清一の作品を保存・整理している三男・耕三さん(左は清一画「自画像(複製)」1928年)

戦争責任を負い美術画壇から去った 洋画家・鈴木清一の回顧展

カテゴリ:文化・芸術・音楽, 絵画


戦前の兵庫画壇の黄金期を築いた洋画家・鈴木清一(1895-1979)の、11年ぶりの回顧展が、10月25日~11月6日、こうべまちづくり会館で開催された。
茨城県・水戸市出身の鈴木清一は26歳で帝展初入選、昭和のはじめに神戸へ移り住み、帝展や文展の常連として出品しながら、小磯良平、小松益喜らとともに地方画壇のために活動していたものの、戦後、美術画壇からは一切姿を消してしまった。というのも、清一は戦争中、大政翼賛会の傘下に置かれ、美術家も戦争に協力するよう新しく組織された兵庫県新美術聯盟の委員長に就任しており、戦中は「彩管報国(絵筆をとって国恩にむくいる)」の名のもとで200人を超える会員の先頭に立っていた。しかし戦後、状況が一変すると、逆にその立場を問われ、公職追放となってしまう。清一自身も、最高責任者としての責任をいさぎよく負い、一切の画壇活動から身を引いたのである。「損得勘定を嫌い、世渡りに長けた人を好まない」人物だったという、画伯の潔白な人柄がうかがえる。
画壇は去ったが、絵筆は折ったわけではなかった清一は、晩年に至るまで舞子や六甲といった神戸の風景を描き続け、またろうけつ染やその図案なども多数創作している。今回の展覧会では、清一が戦前・戦後に描いた神戸風景、戦中に粗末な紙に描かれた絵画、デッサン、スケッチなど44点が展示された。期間中、清一の三男・鈴木耕三さんの講演会も開催。神戸といえば異人館やおしゃれな婦人などの洋画が思い浮かぶが、清一が描き続けたのは原風景ともいえる、松林や山並みなどの風景だった。84歳で亡くなった際、イーゼルの上に乗っていたのも舞子の松林の絵だったという。

鈴木清一の作品を保存・整理している三男・耕三さん(左は清一画「自画像(複製)」1928年)


鈴木耕三さん講演会より。絵は戦争中、神戸の街頭で描いたもんぺ姿の女性


「舞子の松」(1979年)


多くの人々が訪れた回顧展

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