10月号
関西屈指の文教地区 六甲界隈について【下】
六甲山の麓、緑の裾に佇む閑静な環境は関西屈指の文教地区として知られている。現在の阪急六甲駅の北西の篠原、駅の南の八幡を中心に、六甲エリアが歩んできたヒストリーを振り返ってみよう。
努力を重ね豊かな里へ
赤松円心たちが躍動した南北朝の争乱から、時代は室町、戦国へと流れ、やがて豊臣秀吉が天下を手にし、現在の灘区一帯は1594年に太閤検地がおこなわれている。徳川幕府が開かれると六甲エリアの大半は尼崎藩領、一部は旗本領となった。
江戸時代、この一帯の基幹産業は農業で、経営規模こそ大きくはなかったようだが、米や麦などの穀物のほか、大豆、菜種、綿、野菜などを栽培した。干鰯や油かすなどの金肥(購入した肥料)を使って土地を肥沃にするだけでなく、扇状地ゆえに土地の水持ちが悪かったため、芝草などの有機物を入れて土壌の改良をはかった。さらに治水や用水の面でも水路やため池などを整備するなど、より生産性の高い農地へと努力を重ねた先人たちの辛苦には頭が下がる。
急流を利用した水車産業は江戸時代初期から発展、享保の頃に六甲川の上流にはその名もズバリ水車新田という地名まで生まれ、現在も大字名として地図に残る。ここで新田を開発し水車場を設けたのは、紀州の田林宇兵衛という人物。六甲川は篠原村や八幡村の大切な水源だったため、水の使用の交渉は難航したが、1727年にさまざまな制限が課せられつつも協定が成立、天明年間には25両、寛政年間には30両の水車が稼働し、主に搾油に使用されていたようだ。その後は米搗き用と用途が移り変わり、灘の酒造りを支えた。水車は近代になっても活躍したが、大正末期頃から電力に取って代わられ、昭和13年(1938)の阪神大水害で被害を受けて姿を消した。
六甲川に沿った篠原村や八幡村の入会地の山林では、御影石の採石もおこなわれた。石は車に積まれて大石浜へと運ばれて売買され、ひとつの重要な産業になっていたようだ。
郊外住宅地へと変貌
やがて明治維新を迎えた六甲エリアはしばらく幕末の村の枠組みが続いていたが、明治22年の(1889)の市制・町村制の施行により、篠原村や八幡村は周辺の村と合併して莵原郡六甲村となった。明治29年(1896)には武庫郡の所属となり、昭和4年(1929)に神戸市に併合され、その2年後に神戸市灘区の一部となった。
行政は変わっても、この地は相変わらず農業が盛んで、大正時代の記録によれば六甲村では米・麦・じゃがいも、さといも、大根・なすが生産されていたとか。さらに村内には宮本牧場、長島牧場など5つの牧場で100頭以上の乳牛が飼育され、日産約500リットルの牛乳を搾乳していたという。ハイカラ神戸の影響が、産品からもうかがえて面白い。
そんなおだやかな農村だった六甲エリアだが、大正~昭和初期にかけ急速に宅地化され変貌する。東洋のマンチェスターとよばれわが国最大の工業都市へと成長し繁栄した大阪と、東洋一の港町だった神戸の間の阪神間は、明るい南向き斜面にして水や空気が澄む〝健康地〟としてのポテンシャルもあり、利便性と快適性を兼備した郊外住宅地として注目を浴び、〝阪神間モダニズム〟とよばれる独自の文化の土壌となった。この一帯では大正9年(1920)に阪神急行電鉄(現在の阪急)が開通し六甲駅が開業したことが宅地化への大きなインパクトになり、さらに大正14年に六甲村篠原土地区画整理組合や六甲村八幡土地区画整理組合ができて昭和7年(1932)に六甲駅周辺の区画整理が完了したことが拍車をかけた。現在の基本的な区画や道路は、この時代に整備されたものだ。
良好な環境を求めたのは、教育関係者も同じだったようだ。モダニズムの時代、六甲エリアとその周辺では数多くの教育機関が学びの庭を構えた。その嚆矢となったのは明治22年(1869)、原田の森にアメリカ人宣教師のW・R・ランバスが関西学院を創設したことだ。続いて官立神戸高等商業学校(神戸商高)は関西学院の西隣に明治35年(1902)、全国で2校目の高商として設置され、昭和4年(1929)に官立神戸商業大学となり、5年後にに六甲台へ移転、戦後神戸大学となった。大正8年(1919)には県立神戸商業学校が元町から、昭和4年(1929)には松蔭高等女学校(現在の神戸松蔭女子学院大や松蔭高等学校などの前身)が中山手通からそれぞれ青谷へ移転。さらに篠原伯母野山には昭和13年(1938)に私立の六甲中学校(現在の六甲学院)が、終戦直後の昭和21年(1946)には神戸市立外事専門学校(現在の神戸市外国語大学)が開校。ほかにも神戸一中(現在の神戸高校)やカナディアンアカデミーなど多くの名門校が灘区の六甲山麓に学び舎をおき、今もその気風や文化を受け継いで関西屈指の文教地区として名を轟かせている。
やがて戦争の時代を経て、戦後の高度経済成長期には六甲エリアの北にあった鶴甲山(標高327m)が切り下げられ、「山、海に行く」とばかりに土砂がベルトコンベヤで海岸へ運ばれて埋立に使用された。神戸港の発展の一助となっただけでなく、工事で生まれた平坦地は住宅地や神戸大学のキャンパスとなった。
時代は平成になり、一帯は住宅地として成熟して平和な日々を送っていたが、平成7年(1995)、阪神・淡路大震災に襲われて大きな被害を被った。しかし、不死鳥のごとく復興、静かな環境と自然が守られた邸宅街として今に至っている。
参考文献 有井基編『灘区の歴史』 田辺眞人監修『灘の歴史』 灘区まちづくり推進課『灘区歴史散歩』 ほか