6月号
太閤秀吉と二つの「湯」|有馬歳時記
豊臣秀吉と有馬の接点は、三木城攻めに端を発する。三木は別所氏が治めていたが、天正6年(1578)より2年もの歳月をかけて、信長の重臣として天下統一を目指す秀吉はこれを攻める。
当時は有馬も別所氏の支配下にあったが、補給路を断つ「兵糧攻め」で、有馬から三木へ通じる湯山街道はその標的となり、秀吉は有馬を重要視するようになる。
天正11年(1583)の秋、いよいよ秀吉が有馬に入湯。以降文禄3年(1594)まで9度有馬をたずね、湯に浸かっている。秀吉が有馬に通い出した初期の頃、すなわち関白となった天正13年(1585)には阿弥陀堂の庭で大茶会を開催、石田三成・大谷吉継などの近臣や千利休、今井宗久といった茶の湯の匠が参加している。池の底に銅版を敷き、金泉に見立てるという秀吉らしい演出もあったそうだ。利休がこのとき、風炉の灰を茶会の湯から望む山の形に模して盛ったことから、その山は今も「灰形山」と呼ばれている。
さらに天正18年(1590)まさに天下統一を成し遂げたその直後にも、秀吉は阿弥陀堂で大茶会を開く。小早川秀秋や千利休といった秀吉を支えた人物を招き、その労をねぎらった。天下人となった秀吉は、万感の思いで湯を愉しんだのであろう。
その後も何度か秀吉は有馬を訪ねているが、慶長元年(1596)に有馬は慶長の大地震により壊滅的な被害を受ける。その際、秀吉は地震後に新たに湧き出た温泉に湯山御殿を築き、入湯を心待ちにしていたが、夢叶わず病没してしまう。その遺構は皮肉にも、再び有馬を襲った大地震、阪神・淡路大震災の復興の際に発掘され、現在は太閤の湯殿館として公開されている。
もてなしの場として有馬の地を選び、その手段として茶の湯を選んだことからも、秀吉がいかに有馬の湯と茶の湯を愛していたかが伺える。毎年秋に開催される有馬大茶会は、二つの「湯」を愉しんだ秀吉の、夢の続きでもある。