6月号
兵庫ゆかりの伝説浮世絵 第二十八回
中右 瑛
源義平の霊が雷となって復讐する因果ばなし
七月七日の暑い盛り、平清盛の病気全快の祝宴が、涼を誘う布引の滝で催された。久しぶりの酒宴とあって、家来たちは無礼講の酒に酔った。清盛の長子・重盛の重臣・難波二郎常俊も列席したのである。宴たけなわの頃、天俄かにかけ曇り、すさまじい雷鳴と共に豪雨となった。
雷は一行を襲い、難波常俊は雷光を浴びてあっけなく爆死した。
雷となって常俊を襲ったのは、源義平の怨霊である。義平とは、源氏一党の総領・源義朝の嫡男で、頼朝、義経の兄にあたる。豪勇ぶりは「悪の源太」の異名があるほどの荒武者で、平家方からは大そう怖れられていた。
義平は、平家と勢力争いの戦「平治の乱」(1159)で父・義朝と共に戦ったが敗退し、その直後、平家方の難波常俊に捕らわれ、京六条河原で打ち首となった。その時、斬首を介錯した常俊に向かって、義平は
「雷となって、復讐せん!」
と叫んで死んだ。
「無念!」
弱冠二十歳の意気盛んな若武者だった。
その後の常俊も、そのことが気がかりであった。
常俊の落雷死は、その悪の源太義平の怨霊が雷となって復讐したのだと、一行の誰かれとなく言い出した。
このド胆を抜く復讐劇に、清盛は因果の恐ろしさに震えあがったのである。
この種の因果ものは、江戸人に大うけし、芝居や浮世絵を賑わせた。
絵は、義平を善、平家を悪として、因果復讐劇を伝えている。
この浮世絵が出版された前年の安政二年(1855)には世にいう安政の大地震が起きたこともあって、天変地異に材をとった浮世絵が流行した。幕末の騒乱世相をも反映させていたのだろう。
絵師一勇斎国芳。布引の滝で雷に討たれる常俊(図には経房とある)が描かれている。雷光すさまじく、中央には火の玉となった義平の怨霊。その下部に火花を浴び絶命寸前の常俊。雷となって復讐に燃える義平の形相と、あえなく雷に討たれた常俊の無念の表情が対照的だ。左には破れ傘の下で、坊主姿の清盛入道が驚いた表情で睨みをきかす、逃げ惑う家臣たちがいかにも滑稽に面白く描かれている。
■中右瑛(なかう・えい)
抽象画家。浮世絵・夢二エッセイスト。1934年生まれ、神戸市在住。行動美術展において奨励賞、新人賞、会友賞、行動美術賞受賞。浮世絵内山賞、半どん現代美術賞、兵庫県文化賞、神戸市文化賞、地域文化功労者文部科学大臣表彰など受賞。現在、行動美術協会会員、国際浮世絵学会常任理事。著書多数。