2015年
12月号

触媒のうた 58

カテゴリ:文化人

―宮崎修二朗翁の話をもとに―

出石アカル
題字・六車明峰

「礼儀正しくて寡黙で、サムライのような雰囲気の人ではありましたが、明治時代の詩の歴史を話される時には次から次と、いくらでも出てくるんです。ぼくが聞きたいことばかりでした。生きた文学史そのものといった感じでした。いい勉強をさせて頂き、後に随分役に立ちました」
 あまりにも興味深い話が聞けるので、若き宮崎記者は何度も内海の家を訪れる。そして有本芳水など数多の文人との人脈を形成してゆく。
 「奥様もいいところの出の人でしたが、実は有名な歌人でもありました。ところが主人を表に出そうとして、ご自分は控えめな人でした。だからぼくは敢えて奥様のことは書きませんでした」
 そのうち、「一晩お世話になれませんか?」と言って泊めてもらって語り明かしたりと。また、内海もそれまで田舎で余生を送るような状態だったから、刺激がうれしくて歓待してくれたという。
 内海は明治時代後半に与謝野鉄幹の「新詩社」に入る。しかし元々病弱で、当時不治の病といわれた結核にも罹り遺著のつもりで『泡影』という詩集を出す。明治43年発行。これが彼の第一詩集。そのあと詩壇からは消える。
 ところが内海は戦後、宮崎翁の仕掛けによって反戦詩人として世に知られることになる。しかしこの『泡影』に反戦詩は一篇も入れてはいない。この時の心境はどうだったのだろう。内海にとって、その時点で反戦詩は重要ではなかったということだろうか。自分は死ぬものと覚悟を決めて出した詩集である。
 21篇の反戦詩が世に出るのは戦後になってからのこと。前号に書いた神戸新聞での連載「郷土文学アルバム」に先ず先達詩人として取り上げられ、龍野の片田舎で余生をかこつていた人に再び光が当たったのである。
 その後、宮崎翁のお世話で昭和36年に『硝煙』という詩集が「のじぎく文庫」から出る。それが日露戦争時代の反戦詩集として全国的な話題になる。
 その序文に内海氏は誇らしく書いている。
《晶子の「君死にたまうこと勿れ」、楠緒子の「お百度詣で」は最も人口に膾炙し、殊に前者については甚だしく物議をかもし(略)一さわぎであった。私の作品は両女史のものに比べて、より露骨でもあったし、量においても遥かに多かったが(略)》
 そしてこう書く。
《昭和三十年の秋、神戸新聞学芸部の宮崎修二朗君が『文学の旅・兵庫県』の資料調査のため茅屋を訪れ、古雑誌中から私の反戦詩を見出だし、それを自著の中に記述され、また壷井繁治・遠地輝武共編『日本解放詩集』に私の「田園にかくれゐて」一篇が収録され、ついで、詩人向井孝君が『新日本文学』『コスモス』両誌に「内海泡沫の反戦詩」と題して紹介されるなど、発表してから五十年―半世紀を経過してその存在を認められ、今またこれらの作品をまとめて上梓せよと勧められるに至った。漸く戦争反対ということが日本に於ても国民の心となりつつある証左であろうかと思えば、私としてもまことに感無量であり、また明治以来それを一途に念じて来た者として喜びは一入である。》
 『硝煙』収載の詩は、元々は『新声』『新公論』『白虹』などに発表したもの。それを宮崎翁が目にとめたというわけだ。
 内海の自伝『わが心の自叙伝』(のじぎく文庫・昭和43年発行)にこんな個所がある。
《トルストイの『我が宗教』を、三十五、六年ごろに読んで私は深い感動を受けた。それから次々とその伝記や評論などを読んでゆき、その人道主義、博愛思想、ひいてはその帰結としての平和主義、反戦思想に共鳴したのである。》
 こうして反戦詩を書くようになるのだが、また別の所にはこう書く。
《ところで私の詩風がこういうものに傾いて行くのを、鉄幹氏はひどくきらわれた。(略)一しかし私には納得できなかった。そしてその後も反戦詩をはじめ社会的な作品を書き続けた。》
 これは明治39年の秋のことだという。ところがそれからわずか四年後、遺著にするつもりの『泡影』には反戦の「ハ」の字もない。どのような心境の変化があったのだろう。『硝煙』の解説で向井孝氏はその理由を「大逆事件」と関連させて推測している。しかしわたしには、宮崎翁が内海から終始聞かされたという言葉。「花だけがわたしを裏切らない」になにか秘密が隠されているように思えるが、さて。
 終りに宮崎翁が聞かれた、今なら考えられないおもしろい話。
 「内海さんは、三木露風とも知り合いだったし、有本芳水とは親友だったんですね。そんなことから話して下さったんですが、露風が東京の中学に入りたくて試験を受けるんです。しかし数学かなんかが苦手でね、芳水に替え玉受験を依頼するんですね。芳水は秀才でしたから。それで学科は合格するんですが、最後に口頭試問がありましてね、面接ですね。試験官が『三木さん、あなたのお父さんは?』と。しかし芳水は露風のお父さんの名前さえ知らない。それで替え玉がばれてしまった、というようなエピソードでした」
 こんな、今だから書けるといったような話、よほど親しくならないと聞けない。

内海信之の詩集

出石アカル(いずし・あかる)

一九四三年兵庫県生まれ。兵庫県現代詩協会会員。「半どんの会」会員。詩集「コーヒーカップの耳」(編集工房ノア刊)にて、二〇〇二年度第三十一回ブルーメール賞文学部門受賞。

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