2015年
12月号

第二十二回 兵庫ゆかりの伝説浮世絵

カテゴリ:文化・芸術・音楽


中右 瑛

忠臣蔵奇譚 亡父の遺志を果たす少年・矢頭右衛門七

 赤穂浪士・矢頭右衛門七(やとうえもしち)は、大石主税(- ちから)に次ぐ年少者。前髪の凛々しい少年で弱冠17歳。討ち入った時、父の戒名を書いて兜頭巾にしのばせ、父の遺志を果たした忠孝の若者である。
 父の矢頭長助は赤穂浪士・勘定方20石五人扶持ち。元禄14年、城明渡しや残務整理には、家老・大石の右腕として働き、復讐の義盟にも加わった。赤穂離脱の後、大坂に出たが、明日をも知れぬ重病に陥った。
 明けて元禄15年7月、上方在住の同志が集まり決起の京円山会議には、息子の右衛門七が出席した。重病の父に代わって仇討の参加を申し出たのだが、年少のため反対された。
 「ご家老大石様のご子息・主税殿は15歳、私よりも2歳も年下でございます。主税殿が同志に加わって居られますのに、なぜ私がダメでございますか。家老のご子息は討ち入り出来ても、小心者の長助の倅は参加できないという事でございますか!」
 「しかし、貴殿は父様が病に伏せておられ、老母様も気が気であろう。忠ならんと欲すれど、老いた父母に対して不孝というもの。同志に加える事はなりませぬ」
 「今朝、母は、小心者と笑われぬよう、討ち入りの際は父の分まで充分な働きをして、立派な最期を遂げ、父を喜ばして欲しいと申されました。なにとぞ、同志に加えていただきとうございます。母もそう願っております!」
 右衛門七の必死の抗議に、遂に同志に加えられたのである。
 それから間もなく、父・長助は討ち入りを気にしながら、遂に亡くなったのだ。
 その直後、右衛門七は仇討のため江戸へ下った。一人旅は心もとないという事で、母を里方の奥州白河へ預けるため同行したが、道中女手形がないため、母は遠州新居の関で止められ、仕方なく大坂まで連れ戻り、知人に託して右衛門七ひとりが江戸に下った。
 討ち入りの時、父・長助の戒名を書いた紙切れを、兜頭巾の裏に貼って奮戦した。吉良邸の裏庭に出て泉水のところまで来ると、そこへバラバラと駆け込んできたのが吉良の付人の中でも第一の腕前といわれる和久半太夫。
「エイ!」
 と一声挙げて、右衛門の頭めがけてただ一太刀斬りかかった。
「キーン」
 兜は大きな音を立て、右衛門七はバッタリと倒れた。絶体絶命。その時、竹林唯七が割って入り、半太夫を斬り倒した。
 竹林唯七が、倒れた右衛門七の傍に駆け寄り、そこで見たものは、兜の頂点の飾り星が割れてはいたが、右衛門七には異常はなかった。兜の裏に貼っていた父の戒名のお蔭で、右衛門七は救われたのだ。
「父上のご加護…」
 右衛門七は呟いた。
 右衛門七は、父の戒名がお守りとなって九死に一生を得、父と共に討ち入りを果たした喜びを感じたのだった。

一勇斎国芳画「誠忠義士傳・矢頭与茂七教兼」(仮名)


中右瑛(なかう・えい)

抽象画家。浮世絵・夢二エッセイスト。1934年生まれ、神戸市在住。行動美術展において奨励賞、新人賞、会友賞、行動美術賞受賞。浮世絵内山賞、半どん現代美術賞、兵庫県文化賞、神戸市文化賞、地域文化功労者文部科学大臣表彰など受賞。現在、行動美術協会会員、国際浮世絵学会常任理事。著書多数。

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