7月号
連載 浮世絵ミステリー・パロディ ㉛ 吾輩ハ写楽デアル
「写楽はオバケだ!」ゲストの須田刻太画伯
写楽ロマンにあふれるパネラー各人の熱弁に酔いしれたというゲストの須田刻太センセイは、
「こんなに多くの別人説が飛び出すなんて、写楽はオバケだ! 写楽の百四十五図はみな傑作品。比類なき天才写楽は、北斎や歌麿のようにアダルトではないが、チャイルド性の感性豊かな人物。豊国ナンテ、概念だけで描いている。写楽イコール歌麿や豊国、北斎ナンテありゃしない。ナゼ? 諸説フンプンなのかテンデわかんない。ナゾはそのまんま、ソーッとしてほしい…」
と、コーフン気味。刻太センセイも感性細やかな画家で、写楽にゾッコン惚れ込んで、熱烈な写楽ファンの一人なのである。
続けて、飛び入りの内田千鶴子さんが割って入って、
「私の説は、阿波の能役者・斉藤十郎兵衛!」
と切り出す。
「十郎兵衛は実存、八丁堀地蔵橋に居住していた…ときに三十三歳だった!」
飛び入り発言をする、東京から馳せ参じた内田千鶴子さんの阿波の能役者説は、幕末の史家・斉藤月岑が唱えたのを踏襲したものである。
内田さんは舅の内田吐夢カントクが残した「写楽映像化の覚書」の話を披露し始めたのである。
吐夢カントクが「写楽」を映画化したいと研究しはじめ、シナリオの端々を書きとどめた「写楽覚書」。しかしその夢は果たせず、イマワの際まで手元に残した大切な「覚書」を、息子の嫁・千鶴子さんが受け継ぎ、千鶴子さんもまた写楽のミステリーにはまり込んでしまった。いろいろな書物を研究の末、住居不明の写楽の正体は「斉藤十郎兵衛で八丁堀地蔵橋にて居住」していたことを突き止めたのだった。この研究は、後々に大きな波紋を投げかけることになる。それは徳島の能楽研究家が、ひょんなことから斉藤十郎兵衛の過去町を発見!(1996年)そのことは次いで徳島で行なわれたシンポジウム「東洲斎写楽の素顔に迫る!」(1997年7月26日)で討論されることとなる。
シンポジウムは血の雨もなく、和気アイアイ、熱狂のうち、八時四五分、大団円に終了した。二時間四五分の討論に、参加者もパネラーも、写楽ロマンに“酔いしれた”ひとときであった。
しかし、写楽は依然としてナゾのまま、ミステリーは深まるばかりである。
フランキーさんではないが、江戸時代にタイム・スリップしてみないと、解決できそうもない。写楽推理ブームは、まだまだ続きそうである。
シンポジウムの最後は、大阪府立文化情報センター所長の鈴木敬さんによるお礼のアイサツでしめくくられた。
この「にっぽん写楽祭」シンポジウムの記録は、吾輩の独断と偏見でまとめたものである。ご叱咤を…。
中右瑛(なかう・えい)
抽象画家。浮世絵・夢二エッセイスト。
1934年生まれ、神戸市在住。
行動美術展において奨励賞、新人賞、会友賞、行動美術賞受賞。浮世絵内山賞、半どん現代美術賞、兵庫県文化賞、神戸市文化賞など受賞。現在、行動美術協会会員、国際浮世絵学会常任理事。著書多数。