12月号
〈貞松・浜田バレエ団創立50周年記念インタビュー〉 団員たちが一緒に成長し、一緒に舞台を創り上げてきた50年
貞松 融 さん(貞松・浜田バレエ団団長)
浜田 蓉子 さん(副団長)
貞松 正一郎 さん(芸術監督)
貞松融さん、浜田容子さんご夫妻が「神戸でバレエを育てたい」という熱い思いを持って50年前、神戸で設立した「貞松・浜田バレエ団」。息子さんの正一郎さんもその思いを引き継ぎ、さらに将来の発展を見据えている。
軍国少年が初めて知った芸術の素晴らしさ
―融先生とバレエの出会いは。
融 昭和7年生まれの私は、お国のために戦争に行くと決めている軍国少年でした。ところが昭和20年に終戦を迎えると、価値観がすべて変わってしまって。死ぬことだけを目的に生きてきた私は、どうやって生きていったらいいのかわからず、高校へ進学しクラブ活動でいろいろやっているうちに音楽に出逢ったんです。今まで軍歌しか歌ってきませんでしたから、男声と女声のハーモニーがとても心地よく、こんなすてきな世界があるのだと感動しました。気が付いたら観客の笑いと拍手がうれしくて演劇もやっていました。当時の私は、子ども時代の価値観があまりに変わるので人間不信に陥っていましたから、芸術は裏切らない、これなら一生付き合っていけるかも知れないと思って。高校卒業後は劇団を立ち上げたり、大阪でリトミックを習って、それをさらに自分でも教えたりしていましたが、松山バレエ団の公演を観て、ここに入団しようと決めて、東京へ行きました。その後、1960年、神戸に帰り貞松バレエ学園を創設しました。
―なぜ、神戸に?
融 まず地元であること。そして当時、神戸は文化不毛の地という風潮がありました。そんなことはない、絶対にバレエ団をつくる!と決意しました。蓉子先生も同じ思いを持っていましたので、彼女が開いていた「浜田バレエ研究所」と統合して1962年「貞松・浜田バレエ学園」とし、3年後に「貞松・浜田バレエ団」を結成しました。蓉子先生は学生時代から近所の子たちを集めてバレエを教えていまして、彼女の父が家を改装して、畳を板張りにして教室を作っていたんですよ。
―正一郎先生はいつからバレエを?
正一郎 3歳のころから融先生と蓉子先生に教わっていましたが、当時は男がバレエなんて恥ずかしいという時代ですから、ひた隠しにしていました(笑)。
融 ローザンヌ国際バレエコンクールを私が見ましてね、世界にはレベルの高い男性のダンサーが大勢いることを知るのもいいのではないかと、出場を勧めました。そして1982年にプリ・ド・ローザンヌを受賞したのです。
正一郎 英国ロイヤル・バレエ・スクールに留学した後、帰国してからは松山バレエ団にお世話になりました。松山先生や、森下洋子先生、清水哲太郎先生とは、両親と昔から付き合いがあり、私も他ではなく松山バレエ団に入ろうと決めていました。8年ほど後、そろそろ手伝ってくれないかと父に言われて神戸へ戻ってきました。
―迷いはなかったのですか。
正一郎 東京と両立するほど器用なことはできませんし、父と母がつくり、育ててきたバレエ団を守り発展させていきたいという思いがありました。
一緒に育ってきた団員たちだから自然に身に付いたバレエ団カラー
―貞松・浜田バレエ団の特徴はどんなところにありますか。
融 団員は学園からずっと一緒に育ってきていますからとても仲が良く、競い合うというよりは一緒に創っていくというアットホームな雰囲気があります。
―団員同士のご夫婦も多いそうですね。
正一郎 今、7組。来春もう1組増えますが(笑)。バレエのことを理解し合え、高め合えるカップルばかりです。
融 国際的ですよ。アンドリュー・エルフィンストンは、瀬島五月がロイヤル・バレエ・スクール留学後、ニュージーランドのバレエ団へ行き、そこで知り合ったオーストラリア出身のアンディーを連れて帰って来たんです。とてもいい人柄で、入団してくれて良かったと思っています。もう一つの特徴は、当初から主役のチャンスを若い子たちにどんどん与えてきたことです。コンクールで優勝した地方の子が、東京や海外のバレエ団に入団することはあっても、神戸のバレエ団に入ろうという発想はありません。ということは、私たちの手でプリマ・バレリーナを育てなくてはいけないということですからね。
正一郎 それに、ずっと一緒にやってきていますから、バレエ団の“カラー”のようなものを、教えなくても全員が自然と身に付けているんです。これはいい意味でも悪い意味でもあるのですが、例えば、今の英国ロイヤル・バレエ団はいろいろな国からトップレベルのダンサーが集まり国際色豊かで質も高くなっていますが、昔のような一体感が舞台から感じられません。一方でパリオペラ座は今でもほとんどフランス人で附属のバレエ学校出身者ですから、統一感はあります。
創作リサイタルや学校公演を続けてきた多岐にわたる活動
―創作リサイタルは、いつから、なぜ始まったのですか。
融 古典だけでなく、創作バレエの舞台を創り上げたいというのは、私の願いでした。
蓉子 私たちはバレエ団設立当初から「日本のバレエを作りたい」という願いを共に持っていまして、貞松は日本の祭りや文化をテーマにした創作バレエをいくつも創ってきていましたからね。
融 初回は、私が創った創作バレエを何作品か上演したのですが、団員たちから「自分たちも創りたい」という声があがってきまして。それがすごく面白くて、毎年開催することになりました。「創作リサイタル」は今年で27回を迎え、東京や海外でも活躍している団員が持ち帰ってきた作品なども併せて上演しています。
―古典バレエと、モダンバレエを両立させているバレエ団は、数少ないでしょう。団員にとっては良い刺激になるのでしょうね。
正一郎 クラシックバレエは決まった型の中で、いろいろな規制の中で物語を表現しますが、創作バレエは自由で表現の幅が広がります。クラシックに戻ってきたときも一人ひとりの表現が広がってきていることが分かります。
融 クラシックは型から入って、感情を入れます。創作の場合はズバリやることがあり、何でもありでそこへ向かっていきます。クラシックとモダンを行ったり来たりすることで相乗効果が働くようですね。私が演劇を経験したからだと思いますが、ダンサーには、ただ型を舞うだけでなく、「演技する」ということを大切にするよう指導しています。
正一郎 ただ振り返る、ただ驚く型を表現するだけでなく、そこに何かあって驚くわけですから。そこは、個人個人の表現のしかたや感性が加わり、より深い踊りになります。
―そんな中で学校公演も続けておられます。
融 700回までは数えたんですが、もうそれ以上は分かりません。文化庁からの協力もいただき、今年も11カ所の学校を回りました。
蓉子 ありがたいことに、一度観てくれた先生が転勤先の学校で、この学校でもぜひ公演してほしいと言っていただくケースが多いです。これを機会にバレエの裾野が広がってくれるといいですね。
融 昔は、バレエは女の子が観るものだと思われていたようですが、今は男の子も観終わってから「面白かった」「カッコいい」と言ってくれるのが嬉しい。大きくなったこの子たちが観に来てくれているかも知れませんし、一生に一度観るバレエだとしても思い出に残ってくれたらいいなと思っています。
男女共に育ってきたダンサーたち、さらにハイレベルを目指して
―今後の貞松・浜田バレエ団についていかがですか。
正一郎 今のところはとにかく、来年11月に上演予定の新作『ロミオとジュリエット』を成功させることが目標です。新作のバレエは久しぶりで、ようやく上演にこぎつけました。あとは、今まで通り、人を育てることです。日々、一歩一歩の積み重ねですね。団員はすごく頑張っています。バレエ団としてすごく成長してレベルは上がってきていますが、どこまでいっても完成はありませんから。
蓉子 皆が育ってきてくれているのはとても嬉しく、その子たちがさらに上を目指せるようにサポートしていければと思っています。
融 バレエ団をここまでやってこられて本当に満足しています。みんなが本当によくやってくれていて、舞台を見ては毎回、感動のあまりポロポロ泣いてしまいます。ボーイズクラスも正一郎が熱心に指導してくれて、今年はこうべ全国洋舞コンクールの男性ジュニア・シニア部門で3人が入賞するまでになりました。蓉子先生、正一郎先生共に厳しくて決して100点は付けませんが、私はすぐ100点を付けてしまう(笑)。公演の後、「皆さん、すばらしかった、愛してます」と言うんですよ。そうしたら先日、先にダンサーたちの方に言われてしまって、嬉しかったですね。長くやってきて、良かったと思います。
―60年、70年…に向けての発展に期待しています。本日はありがとうございました。
貞松融(さだまつ・とおる)
神戸市出身。兵庫県文化賞、神戸市文化賞、大阪舞台芸術奨励賞、日本バレエ協会舞踊文化功労賞、全国舞踊コンクール優秀指導者賞等受賞。平成23年度文化庁長官表彰、平成23年度文化庁芸術祭大賞を受ける。
浜田蓉子(はまだ・ようこ)
京都府出身。神戸女学院高等部卒業。兵庫県文化賞、神戸市文化賞、大阪舞台芸術奨励賞、神戸新聞平和賞文化賞、文化庁芸術祭大賞等受賞。平成23年度文化庁芸術祭大賞受賞。
貞松正一郎(さだまつ・しょういちろう)
神戸市出身。貞松・浜田バレエ団芸術監督。1980年東京新聞全国舞踊コンクールジュニア部門入賞第1位、1982年プリ・ド・ローザンヌ受賞。第1回こうべユース賞、神戸市文化奨励賞等受賞。