6月号
今も緑あふれる閑静な住宅街 “翠ヶ丘”
翠ヶ丘の「翠」とは、阿保親王の御陵とされる親王塚を包む森に生い茂る翠松に由来するともいわれている。翠ヶ丘は、太古から人が暮らし、平安貴族たちに別荘地として愛され、財界の富裕層が居を構える華やかな時代を経て、今も緑あふれる閑静な住宅街として愛され続けている。
丘陵地帯の一角「翠ヶ丘町」
「摂津名所図会」(寛政8年〈1796〉)~寛政10年〈1798〉刊行)によると、現在の翠ヶ丘町は西国街道の本街道から南の浜街道までを含む広い丘陵地帯「打出村」に位置する。この周辺には旧石器時代から人が暮らした痕跡があり、浜側の打出小槌遺跡からは約2万年前のナイフ型石器が出土し、山側の朝日ヶ丘には縄文時代前期の遺跡が発見されている。丘陵の頂上付近(現在の翠ヶ丘町中心部)に記されている「阿保親王塚古墳」は、現状直径36メートル、高さ3メートルの円墳周辺を、町名の由来にもなった翠松が生い茂る森が囲み、千年以上にわたって高台から翠ヶ丘の街を見守り続けるかのように今に至っている。
芦屋を愛し、この地の人々を愛した阿保親王
この塚に埋葬されたとされる阿保親王は、延暦11年(792)に平城天皇の第一皇子として生誕した。桓武天皇の孫にあたり、平安初期の歌人で六歌仙の一人に数えられる在原業平の父でもある。本来なら天皇になるべき人物だったが、不運にも薬子の変に関わったとされ大宰府に流される。その後、帰京を許され、宮内卿や兵部卿などを歴任し、承和9年(842)、打出にて51歳で薨去し親王塚に埋葬されたと伝えられている。芦屋周辺を所領地とし、この地を愛し、別邸を構え暮らしたとされている。この地の人々も愛し、親王塚に黄金1千枚と金のかわら1万枚を埋めて飢餓の際には掘り出して穀物を換えるようにと伝えたといわれている。在原業平もまた芦屋を愛したと「伊勢物語」に記されている。別荘があったとされる地は「業平町」と名付けられ、芦屋川には「業平橋」がかかる。
芦屋と阿保親王との関りは正史にはみられず、伝説の域を出ない。この古墳も4世紀前半に築かれ、被葬者は当時この地を治めた豪族であるという説が有力だ。しかし、今でも芦屋の人々は親しみを込め「親王さんの森」と呼び、大切にしている。
交通の要衝として戦いの舞台に。そして、地の利を生かして発展
南北朝時代、京奪還を目指す足利尊氏と追撃してくる楠木正成が争った打出合戦でこの丘の麓は戦いの舞台となった。足利尊氏と弟の直義が戦った打出浜合戦では畠山国清が有馬越えでこの地に陣を構え、見通しのきく阿保親王塚古墳は砦の役目を果たしたといわれている。この地が交通の要衝ゆえに幾度かの戦いの舞台になった時代を経て、やがてその地の利を生かして打出村は発展していく。京からの西国街道が初めて「打ち出」る場所であり、本街道と浜街道が分岐する地点であり、江戸時代になると宿場町として繁栄した。農業も盛んに行われ、米や麦、綿や菜種などが栽培されていた。翠ヶ丘は後背の里山として機能し、農業用のため池がつくられ、その堤を補強するために松が植えられた。明治38年(1905)に阪神電鉄神戸大阪間が開業し、打出駅ができると、大阪の郊外住宅地として発展し、財界富裕層たちの豪邸が立ち並ぶ阪神間モダニズムの一翼を担う時代がやってくる。
贅を尽くした二つの大きなお屋敷
阿保親王塚をすぐそばに望む二つの大きなお屋敷があった。東側、緑に囲まれた敷地内、小高い場所に重厚な佇まいを見せていたのが「木村鐐之助邸」。正面は2階建ての腰折れ切妻屋根で本瓦葺き、鉄平石貼りの壁面には欄間付きのアーチ窓が左右対称に並んでいた。内装は、床の寄せ木から幅木、格天井組、建具、枠額縁、階段に至るまで豪勢にチーク材が使用されていた。残念ながら、阪神・淡路大震災で壊滅してしまい、今では実際に目にすることはできない。
その向かい側「吉田甚吉邸」は、岸和田紡績(現在のユニチカ)、和泉銀行、南海電鉄、近鉄を率いた実業家で、山陽電鉄、川崎造船などの経営にも関わり、岸和田市長も務めた吉田甚吉の別邸として昭和8年(1933)に建てられた。設計は近代建築史にその名を刻む渡辺節で、優雅な様式建築を得意とし、村野藤吾の師としても知られる。RC造2階建てスパニッシュ様式の洋館の内装はオールチークで光の角度によって黄金に輝くように見え、そこに大胆且つ繊細な文様が刻まれている。大理石のマントルピースの左右ではエンタシス様の柱が荘厳さを醸し、ランプや蝶番は質感のある真鍮で作られている。終戦直後は占領軍に接収され、幹部たちから「関西一の洋館」と称賛されVIP施設として使われたのだろうか、マッカーサー夫人も訪れたという。和館は障子幅が広く、その縁には赤漆が丁寧に施されている。床の間には花頭窓があり、茶室は外皮の残る木材を天井にあしらい、丸窓は竹で縁取られている。この建物は50年ほど前に取り壊されているが、その内装の一部は大阪市内のとあるビルに保存・再現されている。
こうして翠ヶ丘は、太古から人が暮らし、平安貴族たちに別荘地として愛され、財界の富裕層が居を構える華やかな時代を経て、今も緑あふれる閑静な住宅街として愛され続けている。