2月号
連載 神戸秘話 ⑭ 科学技術で戦後の日本を再生した男 井深 大
文・瀬戸本 淳 (建築家)
私が神戸高校在学中、先輩による講義で特に印象に残っているのが井深大氏だ。神戸高校の前身の神戸一中を昭和2年(1927)に卒業しており、当時の高山忠雄校長の5つ下の後輩なので気軽に来て下さったのだろうが、すでにトランジスタラジオやトランジスタテレビのみならず、家庭用白黒ビデオテープレコーダーを発表した頃で、社長として「世界のソニー」を牽引していた。56歳ぐらいだったが、背が高く精悍で、髪も黒かった。上品な紳士というイメージだったが実に熱い人で、眼鏡の奥の眼差しには愛と光が見えた。その存在感に圧倒されてか、大切なことを教えてもらったはずなのに記憶にない。
その24年後、ハワイ・オアフ島のゴルフ場で、楽しそうにプレーする井深氏と出会った。89歳で亡くなる10年前のことで、ひと言でも講演のお礼を言えばよかったと後悔している。
井深大氏は明治41年(1908)、栃木の日光で井深甫の長男として生誕した。甫は新渡戸稲造門下生の優秀な技術者で、日本最古の水力発電所のひとつと伝えられる静岡の発電所を設計した人物だという。しかし、幼くして父を失い、祖父の基が父親代わりだった。井深家は保科家(後の会津松平家)家老の重光から続く一族で会津藩に代々仕え、基は戊辰戦争のとき朱雀隊の一員として奮戦し生き残ったが、白虎隊にいた弟の石山(井深)茂太郎は飯盛山で自決している。
そして小学5年生の時、母親が再婚したため神戸へ。諏訪山小学校へ入学した。ここは神戸一中を目指す予備校のような学校で、スパルタ教育に耐えて神戸一中へ合格した際の喜びはひとしおだったという。神戸一中では俳優の山村聰と同期。2年生まではテニス、3年生になると無線の組み立てなど機械いじりに夢中で成績は急降下。5年生の時に無線をやめると成績は上昇したが、色弱のため官立高校へは進学できず、第一早稲田高等学院を経て早稲田大学理工学部電気工学科へ。在学中から後にパリ万博で金賞を受賞する「光るネオン」を開発するなど才能を発揮した。ところが就活で東京芝浦電気(現在の東芝)の入社試験を受けたものの不採用。もし入社していたらソニーはなかっただろう。東芝もどうなっただろうか。
卒業後は写真化学研究所に入社。その後日本光音工業に移籍し、軍需電子機器の開発に従事したが、戦時技術研究の技術者交流で海軍技術中尉だった盛田昭夫氏と運命的な出会いを果たす。
そして迎えた敗戦。「日本は科学技術で負けたのだ。科学技術で日本を立て直すしかない」と決意し、神戸一中の先輩の支援を受け百貨店の配電盤室で東京通信研究所を設立。後に盛田氏も加わって東京通信工業として会社化し、テープレコーダーやポータブルトランジスタラジオなどのヒットを連発、昭和33年(1958)に「ソニー」となってからも、「ウォークマン®」「トリニトロン」など多くの革新的な製品を世に送り出した。
優秀な技術者であり起業家であった井深氏だが、教育者でもあり、社会貢献にも熱心だった。そしてその背景に、一人の女性が浮かび上がってくる。そのお話は次回に。
※敬称略
※日経Bizアカデミー「私の履歴書」、「会津への夢街道」ホームページなどを参考にしました。
井深 大(いぶか まさる)
技術者・ソニー創業者
1908年、栃木県日光生まれ。神戸一中(現・神戸高校)卒業後、早稲田大学理工学部電気工学科へ。在学中から科学技術者としての優秀さと独創性を顕した。卒業後、日本光音工業で軍需電子機器の開発に従事、後にソニーをともに創設する盛田昭夫中尉と出会う。敗戦後、東京通信研究所を設立。1946年、盛田氏とともに東京通信工業(1958年に「ソニー」に社名変更)として会社化。既存技術にとらわれることなく、独自の研究・開発努力によって新たな製品や市場をも創造していくという会社設立以来の経営姿勢で、日本初、世界初の商品を次々と世に送り出した。教育問題にも高い関心を寄せ、1969年に「財団法人幼児開発協会」、1972年に「財団法人ソニー教育振興財団」を設立、理事長を務めた。また、幼児教育や東洋医学、特に脈診の研究などにも力を注いだ。『幼稚園では遅すぎる』『0歳』『胎児は天才だ』ほか、著書多数。
瀬戸本 淳(せともと じゅん)
株式会社瀬戸本淳建築研究室 代表取締役
1947年、神戸生まれ。一級建築士・APECアーキテクト。神戸大学工学部建築学科卒業後、1977年に瀬戸本淳建築研究室を開設。以来、住まいを中心に、世良美術館・月光園鴻朧館など、様々な建築を手がけている。神戸市建築文化賞、兵庫県さわやか街づくり賞、神戸市文化活動功労賞、兵庫県まちづくり功労表彰、姫路市都市景観賞、西宮市都市景観賞、国土交通大臣表彰などを受賞