12月号
兵庫ゆかりの伝説浮世絵 第四十六回
中右 瑛
白砂青松の名所「須磨・舞子」
須磨・舞子の浜辺一帯は老松が生い茂り、青い松と白い砂浜は古来より「白砂青松」の名勝として名高い。白砂の海岸は、いまは宅地開発の防砂工事などで河川からの土砂の流入が減り、海岸侵食が進行し、美しい砂浜は減少した。また松林も道路拡張や整備による伐採や松くい虫の影響、松の老朽化などで衰退の憂き目に遭っている。
また須磨周辺は源平合戦の古戦場(一の谷合戦)で、松林の公園内には「戦の浜」の石碑が建ち、近年は桜の名所となっている。
「一の谷合戦」で戦死した清盛の弟・薩摩守忠度は、その前夜、桜満開の須磨寺の境内で和歌を詠んだ。
ゆきくれて 木の下かげを宿とせば
花やこよひの あるじならまし
忠度は壮絶な最期を遂げたが、箙に結んでいたこの和歌「旅宿の花」が辞世の句となり『千載和歌集』に「詠み人知らず」として収められている。
須磨・舞子は、海の彼方には遠く淡路島が望まれ風光明媚、気候温暖の別荘地としても知られたが、平安時代は都より遠く離れた左遷の地として、貴族や貴人たちがこの地を訪れている。
この地には、平安の六歌仙の一人・在原業平の兄・在原行平の恋物語「松風村雨伝説」がある。ときの政局に巻き込まれ、須磨に左遷させられた在原行平が詠んだ和歌は
わくらばに 問う人あらば須磨の浦に
もしほたれつつ わぶと答えよ
と詠じた。行平の寂しい心境が伝わる。「松風村雨伝説」は小説や能楽、絵画にもなった。
『源氏物語』にも登場する。
須磨に左遷されたドンフアン源氏の君は、故郷の京へ戻れる日を待ちわびて和歌を詠じた。
故郷を いずれの春か行きて見む
うらやましきは 帰るかりがね
源氏の君は新しい恋人・明石の君との出会いがあり、子供までもうけた仲であったがあったが、心は都に帰る日を待ち望んだ。
西日本・天下三関と呼ばれた「伊勢鈴鹿の関」「美濃不破の関」「越前愛発の関」に次いで重要な「摂津須磨の関」があり、今も遺跡碑がある。
平安末期の歌人・源兼昌は「小倉百人一首」に
あわじしま かよふ千鳥の泣く声に
いくよねざめの 須磨のせきもり
と詠んだ。
須磨はこうして和歌にも詠まれた。
図は、名所絵の名手・歌川広重の「六十余州名所図会・播磨」舞子の浜を描いている(注・須磨は摂津、舞子は播磨)。今は舞子松林の上空に、世界一の吊り橋が架っている。
■中右瑛(なかう・えい)
抽象画家。浮世絵・夢二エッセイスト。1934年生まれ、神戸市在住。行動美術展において奨励賞、新人賞、会友賞、行動美術賞受賞。浮世絵内山賞、半どん現代美術賞、兵庫県文化賞、神戸市文化賞、地域文化功労者文部科学大臣表彰など受賞。現在、行動美術協会会員、国際浮世絵学会常任理事。著書多数。