1月号
桂 吉弥の今も青春 【其の三十二】
十八代目中村勘三郎のはなし
また大事な人を亡くしてしまった。中村屋・勘三郎さんは肉親でもないし芸のジャンルも違うし、実際に共演も、お会いしてちゃんと言葉を交わしたこともないのだけど私にとって大切な人だった。
私は自分の師匠・桂吉朝を亡くしている。師匠の奥さんももういない。太鼓のバチの握り方から教えてくれた望月太津八郎師匠も、踊りを教わった藤間のお師匠はんも最近彼岸に旅立った。そういう先輩の師匠・桂枝雀師ももういないし、先代の米紫、先代歌之助、喜丸。私が入門してからだけでこれだけの米朝一門の落語家が鬼籍に入られた。
自分の年齢が上がってきて自然と周りにいる人たちの年齢も上がり仕方がないことなんだろうけれど、近頃お見送りすることが多くなってきた。
私自身も四一歳の本厄で、先月のコラムで書いたように目を患ったり、いろいろあったので、どうしても同世代と話をすると病気とか寿命の話になる。
ある友人に「師匠はガンになって落語が出来なくなってくやしかったやろうな」と言うと「もちろんくやしいだろうけど、それも運命だから本人も周りもメッセージをちゃんと受け取らなければ」と言う。その友人は母親がガンになったのだが、そのことがきっかけで離れて住んでいる母親に定期的に会いに行くようになったらしい。そして『母親はいずれいなくなるのだ』ということをしっかりと認識できたと言うのである。母と自分の時間を大切に過ごせるし、もちろん自分の身体も見つめ直して人間ドックやガン検診にもちゃんと行くようになったそうなのだ。
私も吉朝が病気になり、いなくなった時は不安だったし寂しかった。いろんなことを恨んだ。しかし今、吉弥という落語家があるのは師匠の死がきっかけになっているのは間違いない。一番感じるのはポジションを開けてくれたという感覚だ。吉朝が仕事をしていた場所を「おい、吉弥、ここでやればいいんやで。俺はおらんようになるから」と譲ってくれたのだ。東西のすごいお師匠はん達と一緒の出番になったり、大ぜいのお客さんが笑っている風景を高座から見ていると『うちの師匠がお膳立てしてくれはったんやなあ』と思うのだ。私だけではない、桂吉朝は自らの病気や死と引き換えに七人の弟子たちを世に送り出した。友人と話していてそう思った。
勘三郎さんの「平成中村座」への思いを聞いた時に驚いた。唐十郎の状況劇場を見た時に「これが歌舞伎だ」と思ったらしい。公園に建てられたテント、観客はゴザの上で自分の靴を抱えて観る。お客と役者との距離は汗や唾がかかる近さ、拍手と熱気でむせ返り「唐!」「李麗仙!」と声が飛ぶ。江戸時代の歌舞伎はこんな熱気に溢れていたんじゃないか。おそらく松竹という大会社の劇場で仕事をしていれば何の苦労もなかっただろうが、そこからテントでやりたいという想いを実現するための努力は並大抵のものではない。ついにはニューヨークに江戸情緒にあふれる小屋をぶっ建てた。
私はニューヨークでは見ていないが、大阪の野外に建てられた中村座の客席に座って中村屋の芝居に泣き、笑った、心が震えた。
勘三郎さんは歌舞伎界に大きなメッセージを残して旅立たれたのだ。いや歌舞伎界だけではなく舞台に関わる者全てに夢と希望を託していったように思う。私吉弥も、落語の世界でやらなくちゃならない。大きな星が一つ消えたことは残念だ、しかし中村屋の声が聞こえるような気がする「次はお前たちの番だよっ」。
KATSURA KICHIYA
桂 吉弥 かつら きちや
昭和46年2月25日生まれ
平成6年11月桂吉朝に入門
平成19年NHK連続テレビ小説
「ちりとてちん」徒然亭草原役で出演
現在のレギュラー番組
NHKテレビ「生活笑百科」
土曜(隔週) 12:15〜12:38
MBSテレビ「ちちんぷいぷい」
水曜 14:55〜17:44
ABCラジオ「とびだせ!夕刊探検隊」
月曜 19:00〜19:30
ABCラジオ「征平.吉弥の土曜も全開!」
土曜 10:00〜12:15
平成21年度兵庫県芸術奨励賞