3月号
触媒のうた(61) ―宮崎修二朗翁の話をもとに―
出石アカル
題字 ・ 六車明峰
実は宮崎翁、昨年末から体調を少し崩されてご入院です。でも院内で新聞切り抜きなどなさっていて比較的お元気だと。その切り抜きというのが、翁ご自身のためではなく、わたしに読ませてやろうとの親心。わたしは涙がハラリだ。
昨年夏に奥様を亡くされた翁、さぞ落胆され、それで体調を崩されたのかと思う人がある。先日お会いした神戸文学館の館長、中野景介さんもそのお一人だ。
しかしわたし思うに、そうではなく、奥様を介護することがなくなり、立ち動くことがなくなったのが原因ではなかろうか。翁をお訪ねすると、いつも決まって書斎の椅子に腰かけて勉強しておられた。だから奥様を亡くされてからは朝から晩まで一日中そうしておられたのだろう。それでは運動不足による体調不良になっても不思議ではない。
と、こんなことを中野さんに話したら、「いかにも宮崎さんらしい」と大笑いされた。「あの人は本当に文学のことにかけたら、全く余人が及びません。百万巻の読書の上に、足で稼いだ人ですから。行く先は日本全国ですが、兵庫県ならそれこそ津々浦々でしょう。そうして裏付けてゆく。今の記者にはとても真似出来ないですね。とにかく勉強家でした。もうあんな人は現れません」と。
前にも書いたが中野さんは神戸新聞社ご出身。若き日には宮崎翁のお供でイモリを食べさせられるなど色んな経験をしておられる。翁も「中野君は面白い人ですよ」とおっしゃっていた。なんでも学生時代に世界無銭旅行をした人だと。わたし、中野さんに確認しました。すると、
「ええ、本当です。大学の二年生になる時に休学してね。横浜港から出たんですが、その時の所持金が忘れもしない九万円でした。そして一年後に帰ってきた時の所持金も丁度九万円だったんです。一ドル360円の時代でした」
嘘のようなホントの話ということ。中野さんのお話も一度じっくりとお聞きしたいものである。
前号で書き洩らしたことがある。
病気療養中の若き宮崎記者を、砕花ご夫妻が見舞いに訪れたという話に付随して。
「ご夫妻が帰られたあと、ぼくの寝床の枕の下から封筒に入ったお金が出てきたんですよ。そのような気づかいをなさる人でした」
これを聞いてわたしには、ハタと思い当たることがあった。
今は宮崎翁宅を訪れて話をお聞きしているが、以前はわたしの店「喫茶・輪」にお出で下さっていた。そこで貴重な文学談義をお聞きし、これは残しておかなくてはということで本稿も記録させて頂くことになったのである。
当時、西宮で月二回、ボランティアの講座を持っておられて、その帰りにうちの店に立ち寄って下さっていたのだ。
わたしは勉強になる話を授業料も払わず一人でお聞きしていたわけである。贅沢な話だ。
翁の好物、水割りはいつもご用意していた。メニューにないのでお代を戴くわけにはいかない。しかし、「サイナラー」と帰られた後、カウンター周りを片づけていたら、コーヒーサーバーの下敷きにしているタオルの下から封筒が現れることがしばしばだった。今になって思えば、それは富田翁からの薫染だったのだ。
富田砕花翁は兵庫県文化賞第一回受賞者である。しかし前号に、ご本人はもらってないとおっしゃっていたそうだと書いた。これについて。
「砕花先生は賞というものがお嫌いでした。兵庫県文化賞のことを『俺、もらいに行ってないよ』とおっしゃってました」
しかし10年ほど前に宮崎翁と訪れた播磨中央公園の「いしぶみの丘」には歴代の受賞者の名前を刻した碑があり、それには「富田砕花」とハッキリ刻まれているのをわたしも見た。間違いはないのだ。
「砕花先生は、こうおっしゃいました。『欲しくないから行かなかったんだが、届けてくれた。あそこにある』と風呂敷包みを指さされました。しかしぼくが中を調べるわけにはいきませんからどんなものが入ってたのか知りません」
そういえば、宮崎翁も授賞ということがお嫌いだ。前にも書いたが、「無実の罪を着せられるような気がして」と。
新聞記者という職業柄、舞台裏をよくご存知だったのでそんな思いがしたのだろう。
「富田先生には、県の文化賞よりも、文化勲章をという話が実はあったんです。緒方竹虎という元朝日新聞の副社長だった人が副総理の時に、東大教授の辰野隆博士が推してね。実現はしなかったんですが、砕花先生はそれほどの人だったんですよ」
ここで一言付け加えておかなくてはならない。
宮崎翁、兵庫県文化賞を受けておられないのだ。遠い昔にそんな話があったやに聞くが、名誉欲の全くない翁のことだ、いきさつは解る気がする。
つづく
■出石アカル(いずし・あかる)
一九四三年兵庫県生まれ。兵庫県現代詩協会会員。「半どんの会」会員。詩集「コーヒーカップの耳」(編集工房ノア刊)にて、二〇〇二年度第三十一回ブルーメール賞文学部門受賞。