3月号
神戸鉄人伝(こうべくろがねびとでん) 第26回
彫刻家
新谷 英子さん
神戸の市街地を歩くと、たくさんの彫刻に出会います。神戸は、山口県宇部市と並ぶ、全国有数の彫刻のまち。その神戸の、彫刻一族と言えば新谷家。新谷英夫さん(故人)、新谷琇紀さん(故人)、新谷澤子さん、そして今回お話をうかがった新谷英子さんは、それぞれ彫刻家として、輝かしい功績をお持ちです。彫刻というものは、完成までに長い時間と労力を要する芸術で、また力仕事も伴うため、女性には「茨の道」と言われたそうです。「父の、彫刻の苦労より、生活の苦労を見て育った。でもなぜかその道に進んだ」とおっしゃる新谷英子さんに、彫刻人生を語っていただきました。
―彫刻を始められたのは、やはりお父様の影響ですか?
それはもう、私たち兄弟は、父のアトリエで遊んで育ちましたから、自然にですね。子供の頃、私が粘土でこしらえたものを見て、父が「これ作ったん誰や?」と言うので、母は怒られるかと思ったそうですけど、父は喜んでいたらしいです。けれどもいざ彫刻の道に進みたいと言った時には、反対されましたね。でも、兄と姉は彫刻科で学んでいたし、私も受験に合格したら、という条件で許してもらいました。今にして思えば、親の心子知らずで、なぜ茨の道に行くのかと、父は嘆いていたと思います。
―それからは、厳しい修行時代が?
入学してまず、先生から「ここに女性はおらんやろな?女性や思とる奴は、女子大へ行け!」と言われました。それから、自分が使う20キロもある石膏の袋を、教室まで運ばされて…重くても小分けにして運んではダメ、と言われました。女性だからと男性に頼るな、自分のことは自分でしろ、ということですね。だから爪を伸ばしたり、おしゃれをしたりとは縁遠い、パンツルックの学生時代でした。
―卒業後に渡航されましたが、海外をご覧になって、いかがでしたか?
卒業後は、鉄の抽象作品を発表していました。スカラシップ制度でアメリカへ勉強に行き、広々した空間に大きな鉄の作品が置いてある、そんな彫刻と環境とのマッチングに感動を覚えましたね。その後ヨーロッパへ行き、アメリカとの違いに衝撃を受けました。ヨーロッパは暗くて灰色の街、でも人類の歴史が染み込んでいるような、深いものが感じられたんです。兄がイタリアでグレコ氏に学んでいたのでそちらを訪ね、1年程滞在しました。この頃から私の中で、抽象表現と具象表現の間での葛藤が始まり、「彫刻って何?」と悩み抜きましてね。そして表現の仕方は異なっても、自分が彫刻に求めるものは変わらないと悟りました。
―その後、神戸市文化奨励賞を受賞され、再びヨーロッパへ行かれましたね。
賞は若い時の視野を広げる、ありがたいチャンスでした。夏休みに2か月の予定でドイツへ行き、研究や研修のために、いろいろな人の伝手でイタリアやチェコスロヴァキアへも足を伸ばし、滞在がどんどん長くなりました。ヨーロッパは、美しいものを伝えていく知恵を持っていて、それが伝統を作る土壌があり、すごく感銘を受けます。ウィーンに腰を据えて制作を始めて、帰国したくなかったのですが、父や兄から「ええ加減にせいよ、早く帰って来い!」と言われ続けてね。と言うのも、大学の授業の代講をしてもらっていたので…結局1年後に、観念して神戸へ戻りました。
―神戸に住まわれたのは、お父様の代からですか。
父は、金沢の生糸問屋の長男だったのに、周囲の反対を押し切って美術の道に進み、勤めをすると制作ができないからと、神戸で建築設計や工芸品のデザインなどを手掛けました。ちょうど戦後の復興の時代、どのお店もデザインを求めており、ラ・モード、マキシン、マリアなどのウィンドゥデザインやディスプレイ・家具・看板等の造形のお仕事をいただきました。物づくりのすばらしさを見せてもらいましたね。私たちは神戸に育ててもらったんです。
―そして今や、彫刻のまち神戸に新谷一族あり、と言われます。
一九五四年に建立された、須磨のみどりの塔「薫風」は、神戸の復興を祈念した父の制作で、神戸初のモニュメントと言われています。以来、神戸には彫刻がたくさん設置され、まちの特色にもなりましたね。私たちは「一族」と言われ、分業で制作していると誤解されたこともありましたが、実際は大違い。私たちはひとつアトリエを使っていたけど、時間を変えて制作していました。皆よきライバル、それぞれ聴く音楽も違うし、表現も手法も違う、それぞれ独立したイデオロギーで制作していましたよ。お互いに影響を受けないように、作品に袋を被せて隠していたくらい。今思えば変な兄妹ですが、家族としては、とても仲良しでした。
―ご自身のお仕事で、思い出に残っているものは?
さんちかに制作した、デビュー作「オーロラ」です。今は店舗になっていますが、スペースをデザインした思い出深い作品。「ショッピング街にアート」と、建築雑誌などにも取り上げられ、いい仕事をさせていただいたと、今も感謝しています。
―女性には厳しい彫刻家の道を歩まれ、名をなされた現在、夢かなえた人生と言えますか?
私は神戸で彫刻をすることに主軸に、人生をやってきました。生まれも育ちも神戸で、大好きなまちで、多くの方に支えていただき、彫刻の仕事ができることは本当に幸せですね。物づくりは一夜にしてならず、コツコツと積み上げていくことが大切、そして直感も大事です。そのためには、観察力・デッサン力・発想力を養っておかないとね。芸術は、心に響くもの。若い人たちに、その魅力を伝えられる使者でありたいと願っています。
(2012年1月30日取材)
とみさわ かよの
神戸市出身・在住。剪画作家。石田良介日本剪画協会会長に師事。
神戸のまちとそこに生きる人々を剪画(切り絵)で描き続けている。
日本剪画協会会員・認定講師。神戸芸術文化会議会員。