2012年
8月号
8月号
アジアの海産物を珍味に
株式会社かね徳
会長 東村克德さん
かね徳のアジア各国との縁は長く深い。
食材を求めて飛び回ったという東村克德会長にお聞きした。
―定番人気商品「くらげうに」を昭和26年に発売。その経緯を教えて下さい。
東村 私の父、創業者の東村德太郎は14歳の頃から行商をするなど商売が大好きで、大正14年、芦屋三八通り商店街に西洋食料品店を開店しました。その後、色々な商売をしていたようですが、敗戦で全て無くしました。
戦後は海産物の卸など商い、昭和24年に、仕入れた三陸のうにが、当方が知らない内に輸入された安価な韓国産うにに翻弄され販路を失ない、在庫を抱えてしまう羽目となりました。困り果てたあげく、くらげの歯切れの良さに目を着け、うにと混合したらと閃いたのが「くらげうに」です。
日中国交がない時代ですから香港経由で仕入れた歯切れの良い中国産クラゲと国内上質うにの絶妙のマッチングにより、日本初の創作珍味メーカとして上々のスタートを切りました。
―次のヒット商品が㈱かね徳の登録商標「とびっこ」だったのですか。
東村 中国は文化大革命の混乱期を迎え、クラゲを生産するどころでなく、なかなか手に入らなくなりました。「何とかしなくては…」と父と二人で頭を抱えていました。丁度そんな時、昭和43年に、商社のインドネシア駐在員から「トビウオの卵が獲れるが、数の子のバラコ代わりに使えるのではないか」という情報が入り、早速、スラウェシ島、マカッサルに飛びました。
現地ではトビウオ漁が昔から盛んで、魚は天日干し塩蔵して食用にしていましたが、卵は捨てていました。これを利用できないかという話だったのです。乾燥したトビウオの卵を金網に押し付けて、一粒ずつの粒子にして乾燥原料として輸入し、昭和43年に、醤油味「とびっこ」として製造販売を始めました。
当社には幸いなことに、この2年続けて北海道でイクラの不漁が続き高騰した時期でした。味付には苦労しましたが、北海道で人気商品として売れ、全国に販売するようになりました。
また、同じ時期にジャカルタでクラゲを製造し始めた中国人の林振東氏がいると情報が入りました。最初は加工が未熟で種々問題ありましたが、何とか使用できるところまで仕上がり、中国産クラゲが無い時でしたから、代用品ではありますが、翌年に輸入にこぎ着けました。2年後の昭和45年、マレーシアのペナン海峡でクラゲが大量に発生し現地より招かれ、漁獲方法、加工を指導し生産を始めました。この時期から東南アジア全域にクラゲ産業が拡大していきました。
―今でも、とびっこはインドネシア産ですか。
東村 インドネシアの数年後には台湾の塩蔵、冷凍された卵を基隆の業者と協同開発にも成功しました。その後昭和47年、日本貿易振興会(JETRO)のミッションでペルーへ行った時、移動中のバスの窓から干したトビウオの卵らしきものを見つけました。現地ではボリビアの山岳民族が蛋白源として昔から食べていました。日本に帰ってから産地を調べ、昭和57年に、ペルー南部のナスカ、ロマスでトビウオ漁にトライしたのですが、量的に漁獲出来ると分かったのですが、求める質には耐えられるものではなかったですね。大粒で脂が多く硬くて質は落ちます。当時は商品として2番手としてしか使えないものでしたが、現在は卵を柔らかくし、脂も洗い落とし使用しています。
―インドネシアでは他にも開発しているものがあるのですか。
東村 昭和63年、「干したチリメンじゃこ」を食べる習慣があることを、現地スーパーで見つけ、日本産の「かたくちいわし」と同種であったので、日本人向けに合う製造方法を指導して、平成2年から製造輸入が始まりました。これがインドネシアから日本に入ってきたチリメンじゃこの第一号だと思います。
―ベトナムのハビコ社と事業協力していますが。
東村 永年「甲いか」を輸入していたタイが高度成長期に入り価格が高騰し始め、新天地を求めていました。そこで、平成2年にベトナム政府がドイモイ政策を強力に推し進め始め、経済を活性化させようとしたベトナムへ出かけました。まだ社会主義色が濃く残り、国家が疲弊している時代でしたが、水産に対する情熱はありました。
当時、ほとんどが国営企業であり、興味を示すのですが、全てお役所仕事で、求める良いパートナーがなかなか見つからない。数度派遣した社員が諦めかけ、打ち切りを覚悟した頃、商社を介して巡り逢ったのがハビコ社でした。求めていたパートナー、求めていた甲いかがそこにあったのです。
―ハビコ社はベトナム大手の水産加工会社だったのですか。
東村 ホーチミンの近くのブンタウという所にあり、工場は建てたものの何も仕事がなく、これから何をするかという段階でした。もう21年前ですから民間会社の先駆けといえる存在でした。正直、当初は輸入した「甲いか」は加工が不十分で、一年ばかりは弊社工場で生産するのに困りました。
しかし、次第に技術が高まり、良いものになってきた頃「付加価値を付けた製品を造りたい」と申し出がありました。そこで、ベトナム進出5年目の平成8年にハビコと合弁会社「BCC」を設立し、ハビコ社敷地内に新工場を立ち上げました。主に寿司ネタになる海鮮食材を造っていますが、ベトナムの女性は、賢く、向上心が高く、手早く正確に、基準通りの良いものを造ってくれています。生のままの寿司ネタ・バナメイエビは日本国内で先駆け商品となり、関西、九州で特に支持を受けて拡販することが出来ました。
―色々な所へ行っておられますが、失敗談はありますか。
東村 もちろん、たくさん失敗もしていますよ。バリ島で一番大きな食品加工メーカーを紹介され、バリ島周辺を潜水夫を雇って調べましたが、商品にできるような食材は何も見つからず、失敗に終わりました。ブラジル大西洋岸へトビウオの卵を求めて出かけて行き、海上で「あわや大西洋のモクズか?!」という目にも逢っています(笑)。 トルコにもクラゲがあると聞き、行ってみましたが、これも商品にできるものではなく失敗。ところが、そのついでに黒海、マルマラ海、エーゲ海、地中海の沿岸をくまなく調べて、黒海で現地では食べない「アカニシ貝」が大量にあるのを知り、現地のエスカルゴ加工の機械と技術を使えて成功に至りました。
―フットワーク軽いですね!
東村 新しいものを開発するには、まず現地に行かなくては!
若い頃はあっちこっち飛び回り、一年のうち半年も日本にいないこともありました。それを父が許してくれていたことは有り難かったと思っています。たとえ失敗しても、意外な副産物に出逢うこともあれば、ずっと後になって「あの時の!」と役立ったことも多くあります。世界中どこへ行っても、一番大切なことは、そこでいい人格者、いいパートナーに出逢えるかどうかです。
―人のご縁も大切なのですね。
東村 「くらげうに」の開発をきっかけに創作珍味メーカーとして出発し、戦後の日本の食生活向上に伴い、日本国内で調達していた魚介類材料が次第に生鮮利用に広がり、原料を世界に求めたことが原点になったと思います。
時代の変遷に、弊社が生き残るために必死で取り組んだことも事実です。とびっこ、くらげ、チリうに、黒海のアカニシ貝、インドネシア産チリメンじゃこ等々の開発に繋がり、現在も業界を中心に主原料として使用され、消費者に喜んで頂いていることは望外の喜びです。
株式会社かね徳 会長
東村 克德さん
1939年神戸市に生まれる。
1963年関西学院大学文学部史学科卒業。
1964年株式会社東村德太郎商店入社、取締役就任。
1986年代表取締役社長就任。
1996年株式会社かね徳に社名変更、2007年現職、取締役会長に就任。
1995年兵庫県珍味商工協同組合理事長就任、2002年全国珍味商工業協同組合連合会理事長就任、同年、全国珍味協会理事長就任。
2012年兵庫県珍味商工協同組合名誉理事就任。現在に至る。