8月号
触媒のうた 18
―宮崎修二朗翁の話をもとに―
出石アカル
題字 ・ 六車明峰
「戦後間もなくのころでした。三浦光子さんにお会いしたことがあります。神戸楠谷町にあった愛隣館という孤児収容所にお話を聞きに行きました」
三浦光子は歌人石川啄木の妹で、啄木は彼女に関していくつかの歌を残している。
船に酔いてやさしくなれる
妹の眼見ゆ
津軽の海を思えば
わかれをれば妹いとしも
赤き緒の
下駄など欲しとわめく子なりし
クリストは人なりと言えば
妹の眼がかなしくも
われをあはれむ
啄木はこの光子さんを思想は違いながらも深く愛していたようだ。
光子さんは明治21年生れ。同40年10月、日本メソジスト小樽教会(※出典『啄木を繞る人々』吉田孤羊)で洗礼を受けクリスチャンになっている。後、紆余曲折を経て神戸に住み、芦屋市公光町の「聖使女学院」(婦人伝教師の養成機関)に学ぶ。
「ぼくがまだ26歳の駆け出し記者の時でした。いいお話を聞こうと思ってお会いしたんですがね、『兄はあなた方が想像なさるような人柄じゃありませんでしたよ。嘘つきで…優しさなんか全然ない…』といったような悪口ばかり聞かされて、それまでの啄木像があっけなく粉砕されてしまいました。まあ、肉親の悪口ですから、その裏にある何かを探らなくてはならないんですが、それは今だから言えることで、当時の僕は未熟者でしたからすっかり気落ちしてしまってね、折角の取材が原稿にならずじまいでした。新聞記者も人生経験が身について老獪になるには十数年はかかりますからね」
残念ですねえ。
「何か光子さんの特徴的な印象は残ってませんか?」とお尋ねしたが、「もう60年以上も昔のことですからねえ、忘れてしまいました」と。
本当に惜しい事だ。啄木の妹を取材した人なんて今ではもう翁を於いてないでしょうに。わたし、もう少し食い下がってみました。すると、
「そうそう思い出しました。光子が書いたとされている本で、僕が懇意にしていた歌人の頴田島一二郎が代筆した、啄木に関する本がありましたよ。これも誰も知らないことでしょう」
またまた驚く、宮翁さんの語る秘話である。
わたし、先ずそれらしき本、『兄啄木の思い出』(理論社)を手にしました。ところがこの本、不思議なことに奥付に発行年月日が記載されてない。ただ「序にかえて」の文章の冒頭に「兄啄木が生きていれば今年(昭和三十九年)はもう満七十八歳になる。」とあるので、その直後に出版されたのだろう。
読んでみて、しっかり書けているのに感心した。ところが中にこんな記述がある。
「また、多くの啄木研究書では、啄木をロマンスの主人公にするために事実を曲げてかいた書もないではない。たとえば、
たはむれに母を背負ひて
そのあまり軽きに泣きて
三歩あゆまず
という歌にしても、これを作品としての善悪可否を検討されることは故人としても光栄なことと思うものの、これをもって啄木の親孝行の見本とするという見方には、兄もさぞ苦笑するだろうと思う。(略)」
ほほう、と思います。宮翁さんが昔、光子さんから直接お聞きになったことの証だ。
読み進めて行くと、啄木の二面性がよく分かる。しかし、それだからと言って、啄木の芸術的価値が損なわれるというものでもないような気もするのだが。でも、若き日の宮翁さんは相当がっかりされたのだろう。
ところで、この『兄啄木の思い出』は本当に頴田島さんの代筆によるものなのだろうか?「あとがき」の中にこんなくだりがある。
「本書が世に出るまでに並々ならぬご尽力をいただきました青森県啄木会会長川崎むつを氏に限りなき感謝をいたします。本年(昭和三十九年)十二月二十日をもって満七十六歳になる私が断片的に書きとどめたものを、原稿紙にまとめるだけの勇気が薄らいでしまいましたので、たいへんご多忙な同氏に原稿の整理と助言をいただきました。」
ということで、どうもこの本は頴田島さんによるものではなさそうである。わたし、本を持参し翁に確かめました。すると、「これは違います。もう一冊あるはずです」と。
探してみました。すると神戸中央図書館に『悲しき兄啄木』というのが所蔵されている。これは読んでみなくちゃ、と出掛けました。
つづく
出石アカル(いずし・あかる)
一九四三年兵庫県生まれ。「風媒花」「火曜日」同人。兵庫県現代詩協会会員。詩集「コーヒーカップの耳」(編集工房ノア刊)にて、二〇〇二年度第三十一回ブルーメール賞文学部門受賞。喫茶店《輪》のマスター。出石アカルブログ