3月号
淡路島の歴史に新たな発見が
松帆銅鐸の調査・研究始まる
昨年4月、南あわじ市で出土した「松帆銅鐸」の調査研究が本格化する。
「数十年に一度」とも言われる貴重な発見から見えてくるものは?
兵庫県立考古博物館の和田館長にお聞きした。
付属品と共に入れ子状態で発見
―7つの銅鐸発見のきっかけは。
和田 南あわじ市松帆地区から採取された砂を加工処理中、作業員の方が「砂の中に何か変わったものがある」と気付いたそうです。一つはベルトコンベアーに乗ってきたとか…。遺失物として扱われた後、最終的には、兵庫県を経て、南あわじ市への帰属となりました。紛失、散逸せずに後世へ伝えることができたのは非常に幸運だったと思います。
―まとまって発見されたのは珍しいことなのですか。
和田 非常に珍しいことです。島根県の加茂岩倉遺跡での39点、滋賀県の大岩山遺跡での24点、兵庫県の桜ヶ丘遺跡での14点に次ぐ、全国で4番目に多い出土数です。銅鐸は鐘状の本体を吊り下げ、その中に吊した棒状の「舌(ぜつ)」を本体に当てることで音を出す楽器です。今回は保存状態が非常に良く、それぞれの舌が出てきただけではなく、本体を吊り下げる紐や、舌を吊す紐も奇跡的に残っていたので、たいへん驚きました。日本で初めてです。7点のうち3組6点は大きな銅鐸の中に一回り小さな銅鐸がはめ込まれた「入れ子」という状態で発見されています。
―いつの時代のものと推測されているのですか。
和田 銅鐸は、比較的小型の音を鳴らして「聞く銅鐸」から、大型の音を鳴らさずに置いておく「見る銅鐸」へと変化して行きます。今回のものはいずれも小型の「聞く銅鐸」で、専門用語の分類名では菱環鈕(りょうかんちゅう)式1点と外縁付鈕(がいえんつきちゅう)式6点ということになり、銅鐸の中ではもっとも古い一群で、弥生時代中期初頭ごろ、実年代で紀元前2~3世紀ごろのものと考えられます。
―「聞く銅鐸」ということは、音を楽しんでいたのでしょうか。
和田 どんなふうに使っていたのかはまだ十分明かではありませんが、水稲農耕の時代ですから豊作を祈念するお祭りや、豊作を祝うお祭りで鳴らしたのではないかと考えられています。
―何十年に一度の発見ともいわれる松帆銅鐸は、国宝クラスなのでしょうか。
和田 重要文化財クラスのものとは言えますが、国宝に指定されるか…それはまだ分かりませんね。
交易の中心だった淡路島松帆地区
―松帆地区は当時どういう所だったのでしょうか。
和田 現在は三原平野から海に向かって流れ出る三原川河口です。恐らく当時は、砂州が発達し、その内側には潟湖が広がっていて、当時使われていた丸木舟や、それを大きくした準構造船が停泊しやすい良港だったと考えられます。周辺の古津路で銅剣14本、慶野で銅鐸1点が出土していますし、中の御堂では銅鐸8点が出土したと伝えられています。当時は石器から、青銅器・鉄器へと移りかわるころですが、淡路島では、朝鮮半島から入ってくる鉄を使って鍛冶をしていた淡路市にある弥生後期の「五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡」とともに非常に興味深い遺跡です。
―そこから見えてくる弥生時代の暮らしとは。
和田 スピードが速いか遅いかの違いだけで、人間はいつの時代も盛んに交流・交易をしています。当時も集団間のネットワークの中で人・もの・情報がさかんに動いていましたから、松帆の港は淡路島の交易の中心のひとつであったと考えられます。銅鐸もその土地で作ったものとは限りません。銅鐸は一つの石の鋳型からいくつも同じもの(同笵鐸)を作れますから、遠く離れた土地で兄弟の銅鐸が見つかることもあります。今回発見されたものと同じような銅鐸が島根県の加茂岩倉遺跡からも見つかっていますので、両者の関連性を検証するのも今後の楽しみな課題のひとつです。
―いよいよこれから、兵庫県での調査研究が始まるのですね。
和田 そうです。南あわじ市が中心になって、奈良文化財研究所の協力も得ながら、調査研究を進める予定です。銅鐸そのものの研究もありますが、幸い入れ子状態で発見されましたので、銅イオンの殺菌作用が功を奏し、紐や緩衝材かと思われる植物など、有機物までもが残っていました。紐の素材や撚り方・組み方、あるいは埋納方法などが解明されるのではないかと思います。また、運がよければ、放射性炭素を利用した年代測定も可能かもしれません。
文物や人の流れは次第に畿内から西へと向かう
―国生み神話から考察する淡路島はどういう存在だったとお考えですか。
和田 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)が天の沼矛(ぬぼこ)で大海原をかき回し、その滴が固まりオノゴロ島が誕生したという話から始まる国生み神話ですね。真偽のほどは別として、液体から固体が凝縮してくるという意味では、海水から塩を作る現象と似ています。大阪湾沿岸ではすでに弥生時代から土器を用いて塩を作ることが始まっていましたので、そのような集団が保持していた神話だという説があります。国生みの舞台は大阪湾だったというものです。この大阪湾を挟んで東側に、古墳時代以後は確実に国の中心となる畿内地域(後の律令制の時代に「畿内」と呼ばれた大和、山城、河内、和泉、摂津)があり、西側に淡路島があります。淡路島は畿内の西端にあって、瀬戸内海ルートをやってくる人・もの・情報の入口だったのでしょう。
―邪馬台国もこの地にあったとお考えですか。
和田 私は邪馬台国畿内説です。邪馬台国のころから、政権の中心が江戸に移るまで、畿内地域が政治・宗教・文化・経済等の中心でした。そうなりだしたのは銅鐸の時代の終わりごろからです。弥生時代の終わりごろになると、それまではおもに先進的な文化は中国や朝鮮のある西の方から伝わってきていましたが、この頃になると、次第に畿内から西へと向かう流れが出てきて、古墳時代にはそれが中心になっていきます。例えば、漁撈(ぎょろう)関係で言いますと、大阪湾沿岸で弥生時代の中ごろに使われはじめた飯蛸壷(いいだこつぼ)が、邪馬台国の時代には博多湾沿岸でも使われだしました。大阪湾あたりで作りだされた新型式の土錘(どすい・魚を捕る網のおもり)もそうですし、多くの土器も同様な動きを見せます。畿内で生まれた文化が全国に広がっていくということは、畿内がだんだんと力を見せ始めたということでしょう。
―御食国(みけつくに)といわれた淡路島からは、食べ物が出ていっていたということですね。
和田 律令制が始まってから、全国それぞれの国に役割が与えられました。魚や貝や海草がたくさん採れて、それを加工する塩も作られていた淡路国は、皇室や朝廷に食べ物を献上する御食国に適していたのでしょう。
―長い歴史の中での淡路島の存在とは。
和田 瀬戸内海の東の突き当たりにあり、背後には大阪湾、その向こうには長く国の政治や文化の中心地であった畿内がありました。大阪港は東アジアに向かって開かれた湾であり港でした。そんな中で、淡路島はその西端に位置する要衝として大きな役割を果たしてきたことに間違いないと思います。
―ありがとうございました。今後も調査研究に注目していきたいと思います。
和田 晴吾(わだ せいご)
兵庫県立考古博物館 館長
1948年、奈良県生まれ。1975年、京都大学大学 院文学研究科 考古学博士前期課程修了(文学修士)。1977年に京都大学大学院 文学研究科 博士課程中途退学後、京都大学助手、富山大学人文学部助教授、立命館大学文学部助教授、立命館大学文学部教授などを歴任し、2013年に立命館大学名誉教授(特任教授)就任。古墳時代研究の第一人者で古墳時代の石棺研究の権威