12月号
浮世絵にみる 神戸ゆかりの「平清盛」 第12回
中右 瑛
布引の滝遊覧の清盛一行に雷が襲う
源義平の霊が雷となって難波次郎常俊に復讐するという“因果ばなし”をお話しよう。 mt24
清盛が神戸福原に居を移して(1170年)しばらくした七月七日の暑い盛り、清盛の病気全快の祝宴が、涼を誘う天下の名勝地・布引の滝で催された。久しぶりの酒宴とあって、家来たちは無礼講の酒に酔った。清盛の長子・重盛の家来・難波次郎常俊も列席したのである。
宴たけなわの頃、天はにわかにかけ曇り、すさまじい雷鳴と共に豪雨となった。
雷は一行を襲い、難波常俊は雷光を浴びて爆死した。
常俊の爆死は、数年前、六条川原で打ち首の介錯をした際、
「雷となって復讐せん!」
と叫んで死んだ悪源太義平の怨霊が報復したのだと、一行だれかしとなく言い出した。
義平は、源氏の棟梁・源義朝の嫡男で頼朝、義経の兄。気性が激しく「悪の源太義平」と異名をとるほどの恐ろしいほどに強い荒武者で、若干二十歳。「平治の乱」(1159年)で敗北し逃亡。翌年、潜伏先で平家方に捕らえられ、六条川原で打ち首になったとき、その介錯をしたのが、常俊であった。
「おのれは義平の首討つほどの者か!」
と、気位の高い義平のこと、首切り役の常俊にくってかかったという。義平は遂に観念して、最後には、
「晴れの大役ぞ、早う斬れ!」
と云い放った。
義平の首は、刎ねられた後も常俊の刀に噛みつき、
「雷になって復讐せん!」
と絶叫。
常俊の爆死は、そのときの報復だったという。
このド肝を抜く復讐劇。清盛は因果の恐ろしさに脅えあがったのである。
絵は源義平を善、平家を悪として、因果応報を伝えている。清盛は歴史上の最悪の暴君のイメージが江戸時代から伝わっている。 mt24
この種の因果ものは、江戸時代のひとびとに大受けし、芝居や浮世絵を賑わした。
この浮世絵が出版されたのは安政三(1856年)。その前年には、世にいう「安政の大地震」(1855年)が起きたこともあって、この後、天変地異に材をとった浮世絵が流行した。幕末の騒乱の世相をも反映させていたのであろう。
武者絵を得意とした一勇斎国芳の弟子にあたる一宝斎芳房が常俊の爆死を、迫力満点の妖怪武者絵に仕立て上げた。雷となって復讐に燃える義平のすさまじい形相(中央上部)と雷光に当たり敢え無く雷にうたれ炎に包まれた常俊の容貌とが、対象的だ。稲妻の直硬線には瞬時の速度感が漲り、強烈な印象を受ける。逃げまどう武士たちが、いかにも驚き戸惑う姿が克明に描かれている。清盛の姿は一瞬の風雨にやぶれた大傘(天蓋)の下に見える。
絵師・芳房の一世一代の傑作である。
■中右瑛(なかう・えい)
抽象画家。浮世絵・夢二エッセイスト。1934年生まれ、神戸市在住。
行動美術展において奨励賞、新人賞、会友賞、行動美術賞受賞。浮世絵内山賞、半どん現代美術賞、兵庫県文化賞、神戸市文化賞など受賞。現在、行動美術協会会員、国際浮世絵学会常任理事。著書多数。