3月号
触媒のうた 49
出石アカル
題字 ・ 六車明峰
神戸生れ神戸育ちの作家、陳舜臣さんがお亡くなりになった。二十年目の震災記念日から四日後の1月21日。しかも運命的な午前5時46分だったと。
あの震災直後の25日には、神戸新聞第一面に「神戸よ」と題した一文を寄せておられる。
「我が愛する神戸のまちが壊滅に瀕するのを私は不幸にして三たび、この目で見た」と書き起こし、そして、「人間らしい、あたたかみのあるまち。自然が溢れ、ゆっくり流れおりる美(うるわ)しの神戸よ。そんな神戸を、私たちは胸に抱きしめる」と結ばれる。
陳さんとはわたし、一度だけだがお会いしたことがある。洋画家菅原洸人画伯の個展会場で。2004年4月のことだ。その時の写真にはお元気そうないい笑顔が。しかし隣に写る洸人画伯も一昨年亡くなられ、淋しいことになってしまった。
陳さんは昔、わたしの長男が通う坂の上の学校のそばに住んでおられ、あ、ここが陳さんの家、などと思ったことがある。そのこと、お話ししたら、「足が弱くなって不便になりましたので下へ降りて来ました」と話された。ゆっくりと静かな口調が、風貌とともに大人(たいじん)の雰囲気を漂わせておられたのが印象に残っている。
ちなみに、その家の室号は「六甲山房」である。これについての宮崎翁との面白いエピソードをお聞きしているが、それはまたの機会に。
洸人画伯と陳さんの関係だが、画伯の自伝『四角い太陽』のあとがきにこうある。
《昔々、教会の幼稚園で子供たちと絵のお稽古をしていた頃、二人のお子様のご縁でお近づき頂きました(略)》
帯文への謝辞の一節である。二人のお子様の絵の指導をなさったということだった。
さて、陳さんに関する宮崎翁のお話。
「ものごとをじつによく観察する人でしたね。江戸川乱歩賞を受けた『枯草の根』には、海岸通りの時計台の時計が止まっている場面が出てくるんですが、ぼく、その場所に行ってみました。すると本当に止まっていたんです。町を歩いていても、そんなことを目にとめて、小説の中に取り入れておられる。神戸の町を本当によく知っておられて感心しました。それと、江戸川乱歩さんのことを必ず「乱歩先生」と敬意を込めておっしゃってました。礼儀正しい人でしたね。しかしぼく、たまに飲み屋でお会いすることはありましたが、あまり親しくはしてなかったんです。なにか微妙な壁があるような気がしてましてね。あの方、晩年に日本に帰化しておられますが、やはりラフカディオ・ハーンと同じような心境だったのではないでしょうか。ご家族のことをお考えになった末のことではないかと、ぼくは思いますね」
翁の若き日の著書に『神戸文学史夜話』というのがある。これに江見水蔭(えみすいいん)の「唐櫃(からと)山」という小説のことが出てくる。水蔭は神戸新聞発足当初の社会部長。
小説の内容は、東京から神戸に流れてきた画学生の意気消沈した心境と望郷を、明治二十年代の社会時評などを覗かせて描く半自伝的小説で神戸新聞社時代の作品とのこと。
水蔭は東京から神戸に流されてきて、どうやら不満を抱いていた。理由の詳細は省くが、自分はよそ者と感じていたのだ。それが「唐櫃山」という作品に顕著に表れていると。
この「唐櫃山」は宮崎翁ならではの発掘といっていいもの。明治33年の『文芸倶楽部』七月号に発表されたものだが、単行本にもなってない模様。この誰も知らないような昔の小説の一部が陳さんの『神戸というまち』に引用されている。長編小説の一節から六行。しかもそれは、宮崎翁の『神戸文学史夜話』に引かれている中に、丁度ある。
『神戸というまち』の「まえがき」の中に「本書は大ぜいの方々から恩恵を蒙っている。」とあり、何人かの名前の中に宮崎修二朗という名前も見える。多分これもそのうちの一例なのでしょう。『神戸文学史夜話』は昭和39年発行、そして『神戸というまち』は昭和40年だ。
「そこに陳さんは内に秘めた思いを託されたのではないかとぼくは想像するんです。たしかにあの方は神戸を愛した作家です。でも自伝小説『青雲の軸』の中には戦時中には差別を受けたことも書かれています。なにか微妙な心境もお有りだったのでは?というのがぼくの想像です。まあ、それはぼく自身のことにも通じるんです。ぼくも自分は神戸では異邦人という感覚がありましたから。いずれは東京へ、という思いもありました。でも富田砕花先生とのこともあって果せませんでした」
微妙な心理の推測である。
面白い話もある。
「多分、昭和40年代だったと思いますが、中国人経営の商社の方とお会いしました。用件は忘れてしまいましたが、その時に国際新聞にいたころの昔話をしたんです。新聞社が給料を払ってくれず、困窮して筆耕のアルバイトなんかで生計を守っていたことなどをね。するとその人、『それはご迷惑をおかけしました…』と言って五万円を下さったんです。実はその方の商社の社長が、昔の国際新聞の社主でもあったんです。口止め料でもないんでしょうが、その人は会社の重要なポストにおられたようで。しかも、陳舜臣さんのお兄さんだったんです。妙な所で縁がありました」
陳さんのご冥福をお祈りいたします。
■出石アカル(いずし・あかる)
一九四三年兵庫県生まれ。「風媒花」「火曜日」同人。兵庫県現代詩協会会員。詩集「コーヒーカップの耳」(編集工房ノア刊)にて、二〇〇二年度第三十一回ブルーメール賞文学部門受賞。