3月号
五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡と舟木遺跡
邪馬台国の台頭とともに消えた山上の遺跡
淡路市の北部では、弥生時代の鉄器づくりのムラだった五斗長垣内遺跡と、
大規模な集落だったと推測される舟木遺跡が出現している。遺跡から解き明かされた事実は?
邪馬台国との関係は?淡路市教育委員会の伊藤宏幸さんに話をうかがった。
舟木遺跡も五斗長垣内遺跡も、農地整備がきっかけで発掘調査されました。前者は海抜約150メートル、後者は200メートルという高地の集落です。どうして山の上にあるのか大きな謎で、それが解明されれば淡路島の歴史的な重要性がわかるかもしれません。
五斗長垣内遺跡は、弥生時代に100年以上鉄器生産が続いていたことがわかっています。そのはじまりは畿内の中枢部よりも早かったようです。このことは非常に大きな意味があり、当時の鉄器文化を解明する重要な遺跡です。ただ、周りの山の上にたくさんの遺跡が発見されており、その全貌が明らかにならないと五斗長垣内遺跡の本当の意味が見えてこないでしょう。
2つの遺跡はほぼ同時期、弥生時代後期の1世紀の前半から半ば頃に、突然山の上に現れています。邪馬台国とは少し時代は違いますが、『魏志倭人伝』によると2世紀の後半、卑弥呼が登場する直前の時代はクニとクニの争いが絶えず、邪馬台国の女王、卑弥呼の登場によりそれが治まったとされていますが、五斗長垣内遺跡の鉄器づくりの最盛期は2世紀の後半なので、争いの時期と重なるのですよ。出土した鉄器は矢じりが多いのですが、それが武器として使用された可能性もあります。
五斗長垣内遺跡には建物跡が全部で23棟発見され、うち12棟が鍛冶工房であったことがわかっています。建物から出てくる土器を基準にすると、鉄器づくりが始まると同時に、大型の建物が出現し、少しずつ移動しながら建物がつくられ続けたようです。つまり、発見された23棟は同時期にそこにあった訳でなく、施設が更新されながら続いたということがわかったのです。
五斗長垣内遺跡は、卑弥呼が出てきた3世紀には鉄器生産が終わっていたようなんです。一方、舟木遺跡は、現在のところ鉄器は出土していませんが、五斗長垣内遺跡での鉄器生産終了後も、規模は少し縮小したようですが続いているんです。いずれも消滅した理由はわかりませんが、邪馬台国の時代になると急速に姿を消しますので、もしかしたら邪馬台国の影響があったのかもしれません。また、舟木遺跡は40ヘクタールくらいと面積が大きく、山上の遺跡群の中心的な役割を担っていた可能性があります。舟木遺跡は弥生社会の動きを解明する上で重要であり、五斗長垣内遺跡での鉄器生産の本当の意味を解明する上でも大きな鍵を握っているのです。
舟木遺跡は平成2年(1990)に発掘調査をおこなっていますが、それはほんの一部なんですね。それでも大きな建物の跡が発見されています。鉄器生産を連想させる資料も発見されていることから、五斗長垣内遺跡との関連を解明すべく、今年度から「淡路市国生み研究プロジェクト」を立ち上げて調査する予定です。調査により鉄器生産との関わりだけでなく、集落の役割などが見えてくると、当時の淡路島の役割がわかってくるかもしれません。
南あわじ市で銅鐸が発見されましたが、それも鉄器生産の謎を解明する鍵のひとつになるかもしれません。銅鐸が出てきた近くで銅剣も出てきています。弥生時代を解く手がかりとなる青銅器と鉄器が出てきていますので、今後の調査により淡路島の歴史的価値が再評価され、国生み神話に秘められた事実も見えてくるかもしれませんね。
伊藤 宏幸(いとう ひろゆき)
淡路市教育委員会 社会教育課 課長
1960生まれ。1989年、津名町職員として採用。津名郡内の埋蔵文化財発掘調査、阪神淡路大震災の復旧・復興事業に伴う発掘調査等を経て、2005年より淡路市教育委員会 社会教育課 埋蔵文化財係長。2013年より、淡路市教育委員会 社会教育課 課長。淡路市の文化財保護活用のマスタープラン「淡路市歴史文化基本構想」を策定し、文化財を地域の資産として活かすことに取り組んでいる