3月号
松帆銅鐸発見記念シンポジウム
松帆銅鐸の大発見と謎
2016年2月7日、松帆銅鐸の出土を記念して、南あわじ市中央公民館にて
「松帆銅鐸発見記念シンポジウム」が開催された。会場は満席となり、その期待の高さを伺わせた。
発表と討論
シンポジウムに先だち、銅鐸発見に多大な協力をおこなったマツモト産業株式会社の松本康宏会長へ南あわじ市の中田勝久市長より感謝状と銅鐸のレプリカが進呈された。
シンポジウムの冒頭には南あわじ市埋蔵文化財調査事務所の定松佳重氏から経過報告があり、建材用に松帆地区の水田の下部の砂礫層から集めた砂山の中から一部入れ子状で7点発見され、奈良文化財研究所で詳しく調査した結果、舌や紐の大発見があったことがレポートされた。
続いて難波洋三氏の基調講演(前掲)がおこなわれ、それを受けて3名の研究者が発表をおこなった。
奈良県立橿原考古学研究所 共同研究員の森岡秀人氏は、神戸市東灘区で銅鐸や銅戈が発見された桜ヶ丘遺跡などの例やさまざまな研究者の説を紹介しつつ、弥生人の青銅器の価値観やムラからクニへの歩み、生産体制の変化など多角的な視座から埋納時期や遠隔地埋納の謎に迫った。
淡路と同じ神話の国、出雲で研究を重ねる島根県立八雲立つ風土記の丘所長の松本岩雄氏は、銅剣が358本出土した荒神谷遺跡や銅鐸が39個発見された加茂岩倉遺跡といった出雲の青銅器埋納の例を、松帆と比較しつつ紹介した。
弥生時代の社会に詳しい大阪大学大学院文学研究科 教授の福永伸哉氏は、松帆銅鐸は農耕祭祀に使用したものと推定。弥生時代中期末頃に西日本で平等な社会から支配階層が出現するという社会状況の変化があったが、そのために祭祀が上位階層のものとなったため銅鐸が不要となり供養として埋納したのではないかという説を紹介し、松帆銅鐸はヤマト政権国家形成の最初の動きだったのではと評した。
討論会では兵庫県立考古博物館館長の和田晴吾氏が司会を務め、松帆や淡路島の歴史的意義についてこの日の発表者全員に質問。定松氏は古代の地形から松帆周辺は良港であり、それが歴史的な位置づけに繋がると述べると、難波氏は西日本全体の視点から淡路島は瀬戸内の重要な交通路で、いろいろな大陸文化の畿内への入口だったのではないかと答えた。また、森岡氏は畿内の集団から早くから重要視されていたと考えられると話し、松本氏は淡路北部や東播に青銅器が少ないことから松帆を聖地として埋納した可能性に触れ、福永氏はその意味を知るためには松帆周辺の調査を進めれば見えてくるのではと回答した。
最後に、松帆銅鐸の活用について議論され、地域のシンボルとして積極的な活用や科学の力による謎の解明などさまざまな意見が飛び交い、第一級の史料としてだけではなく、地域の宝物として大切にしてほしいという思いが一致して、シンポジウムは幕を閉じた。
2月7日 於・南あわじ市中央公民館