6月号
自然から享受した類い稀な住宅地「芦屋」
古から風光明媚な地として知られてきた芦屋。江戸時代の「摂津名所図会」にも芦屋川沿いに松林が描かれている。大正初期からは、その自然の景観を生かして郊外住宅地として発展を遂げてきた。芦屋の住宅地としての歩みと価値についてふれてみたい。
海と山、川が編み出す美しき地
大空に美しい稜線を描く六甲山系を源に、まるで陽光に向かうように「茅渟の海」大阪湾へと注ぐ芦屋川。芦屋川は長い歳月をかけて花崗岩の砂礫を山から運び扇状地を形成、さらに川沿いに砂礫が堆積して天井川となり、川の両岸は小高い丘になった。周囲に視界を遮るものがなかった川沿いは、山の翠と海の碧が寄り添う阪神間ならではの美しい景観を創出した。芦屋川は、大阪と神戸という大都市の間にありながら、澄水に野鳥が集い、かつては鮎の遡上もみられた。
都市化が進む大阪から健康的な阪神間へ
明治末期~昭和初期にかけての大阪は、「東洋のマンチェスター」とよばれる日本一の工業都市であったが、その繁栄の裏では環境の悪化があり、特に大気汚染と水質の悪化は市民生活に大きな影を落とした。一方で阪神間は空気清澄、水も宮水に代表される六甲の伏流水で水質も良く、海水浴まで楽しめる良好な環境。ゆえに大阪の商人たちは家族、特に子どもたちの健康のためにこぞってこの地を求めた。当時の冊子『郊外生活』に医師が寄せた記事には、「北は山を負ひて寒風を防ぎ、南は海に面して涼風来たり、冬は暖かにして夏涼しく、大気清浄オゾンに富み、海水清澄、漁獲多く、山水明媚、風光に富み、四時風の方向宜しき上に、交通至便」とあり、いかにこの地が理想的であったかがうかがえる。
川沿いからはじまった邸宅の系譜
明治末期から戦前にかけて阪神間を中心に発展した近代的な芸術や文化、ライフスタイルを指す「阪神間モダニズム」という言葉が生まれ、近現代の生活や文化に大きな影響を与えた。モダニズムの背景には、富裕層を対象とした郊外住宅地の開発がある。その先駆けとなったのは、芦屋川や住吉川の川沿いであった。やがて、経営者や学者、大阪の大地主たちが住まいを求め移り住み、邸宅や別荘が建ち並んだ。以降、宅地の開発は阪神間各地でおこなわれるようになるが、中でも住吉川沿いと芦屋川沿いは区画ごとの規模が大きく、それは、「お屋敷」と呼ばれるほどの規模を誇った。
鉄道とともに発展した郊外住宅地
明治7年(1874)に官営鉄道(今のJR)大阪~神戸間が開通、住吉に駅が設けられたことを契機として住吉川沿いが発展する。明治38年(1905)に阪神が、大正9年(1920)に現在の阪急神戸線が開業したことにより、阪神間が大阪の郊外住宅地の中心となった。阪神間ではまず阪神、続いて阪急が開通したことで、郊外住宅地は浜側から山手へと伸展。さらに、大正12年(1923)の関東大震災により、東京から多くの財界人や文化人が関西に移ってきたが、その際にも環境の良い阪神間が選ばれ、ますます発展することになる。
芦屋における住宅開発のあゆみ
阪神間へ移り住んで来た人たちの多くは上流階級で、中でも大阪・船場の商人たちが主体だった。良好な環境であったことはもちろんだが、風水によれば、西・北は金運や事業運に恵まれるとされていることも、大阪からみて西~北西に位置した阪神間が選ばれた理由のひとつと考えられている。阪神間に邸宅を構えて移り住んだ商人たちは、昔ながらの粋な船場文化の影響を受けてきたが、国際貿易港として栄えていた神戸に近づいたことで洋風文化にも触れ、和洋折衷の独自の文化を育むことになる。
古から風光明媚な地として知られ、江戸時代の「摂津名所図会」に海岸~芦屋川沿いの松林が描かれていた芦屋もまた、郊外住宅地として人気を集める。宅地開発がおこなわれたのは大正初期からで、芦屋川改修や耕地整理の結果、自然の景観を生かした美しい住宅地が出現した。
芦屋に花開いた建築文化
数多くの名士たちが居を構えるようになった芦屋には、渡辺節、村野藤吾など当時のトップクラスの建築家たちが手がけた邸宅が建ち並んだ。その最たるものが、フランク・ロイド・ライトが設計した旧山邑邸(現・ヨドコウ迎賓館)。芦屋には主に接客に使用される洋の空間と、日常生活の場としての和の空間を兼ね備えた「和洋館」という独特の建築が多くみられ、その様子から欧米文化を吸収し、自分たちの文化に昇華させていった芦屋の人たちの暮らしぶりが伺えると言えよう。
景観美化への意識が高い芦屋市民
芦屋市の住民は街の景観を受け継ぎ、守ろうという意識が強い。行政による規制緩和に市民が従うという考え方が普通だが、芦屋は逆で、美しい景観を守る市民運動により、市民が行政に縛りをかけていく傾向にある。それは真の豊かさを識る芦屋の人々が、この得がたい景観が芦屋の価値を高めていると認識し、そして何より芦屋の美しい風景を愛しているからにほかならない。
平成16年(2004)に「芦屋庭園都市宣言」をおこなった芦屋市独自の景観に関する規定は、京都と並び全国的にみても厳しい内容になっている。芦屋市は全市域を景観地区に指定し、さまざまな景観規制があるが、特に大規模開発は都市景観アドバイザーによる「美観」の審査が必要とされ、データ提示だけにとどまらない感覚的・実践的な景観保全が求められる。
条例によるさまざまな規制
さらに芦屋市は独自の条例でさまざまな規制をかけている。「芦屋市住みよいまちづくり条例」では、大きな敷地を分割する際の最低敷地面積の設定やワンルームマンション建設の規制など厳しい建築規制が設けられているだけでなく、市民のまちづくり団体が定めたまちづくり協定を市が認定するといった取り組みもおこなわれている。芦屋市は平成26年(2014)に市独自で景観計画を定めることが可能な景観行政団体へと移行し、屋外広告物条例の策定などの景観規制が検討され、今後も永続的に景観保全に向けた規制の厳格化が進むと考えられている。
法律で守られる「国際文化住宅都市」
芦屋市は昭和26年(1951)に制定された「芦屋国際文化住宅都市建設法」により、住民投票を経て国から国際文化都市に指定されている。個別の法律で国際文化都市に指定されている自治体は全国でわずか9つ。芦屋以外はすべて観光都市で、文化住宅都市は芦屋のみ。芦屋市の景観は、自治体が制定する条例だけではなく、芦屋のために国会が制定した法律によっても守られている。芦屋の美観は芦屋市民だけのものではなく、日本国民の誇りといえよう。