6月号
大阪財界人の誇りがここに 大阪倶楽部
一般社団法人 大阪倶楽部 事務局長
岸本 晴夫 さん
大正元年(1912)、大阪財界の有識者が集い、会員制社交クラブ『大阪倶楽部』を創設。
集いの礎が築かれた。倶楽部会館の設計は、安井武雄氏。
「大阪の近代名建築」のひとつといわれ、100年の時を経て今なお、現役で利用されている安井氏の「自由様式」の代表作となる大阪倶楽部を訪ねた。
社交クラブは近代化の証
18世紀くらいからマレーシアやシンガポール、香港など東南アジアの各国がヨーロッパの植民地にされたことはご存じだと思いますが、その時にヨーロッパの人間が自分たちの文化を植民地に持ち込んできた訳です。ところが、幸いにも日本は植民地になりませんでしたが、イギリス女王ヴィクトリアの「社交クラブのない国は野蛮な国」という発言を受け、明治天皇が伊藤博文にヨーロッパでの視察を命じたようです。
ヨーロッパはレディーファーストの国なので女性を前にしての政治談義や喫煙、飲酒は御法度だったようで、男たちが自由気ままに過ごせる場所が望まれたのですね。男のための組織体として出来たのが社交クラブのようです。
帰国後、最初に交詢社、その後東京倶楽部、鹿鳴館ができたのですが、大阪にはありませんでした。しかし、当時の大阪は人口120万人と東京に匹敵する規模を誇り、当然、大阪にも社交クラブをという声があがって、大正元年(1912)に大阪倶楽部が創設されました。創設にあたっては住友の第3代総理事の鈴木馬左也さんらが尽力したと伝えられています。
安井武雄の知恵と意匠
倶楽部ができた翌々年、初代の会館が建てられました。野口孫市さん(中之島図書館設計者)と長谷部鋭吉さん(三井住友銀行本店設計者)の設計で、木造でした。しかし、大正11年(1922)に焼失してしまいます。
そして大正13年(1925)、2代目となる現在の会館が建てられました。芦屋の滴翠美術館を手がけた安井武雄さんの設計で、施工は大林組です。
戦災を乗り越えいまも残っているのは、設計者がちゃんとしていてくれたからでしょう。大阪大空襲では建物のほとんどが焼夷弾で焼けてしまったのですが、安井さんは窓に鉄製のシャッターを設けるなど、火の手が入らないような設計をしていたのですよ。ちょうど初代の会館が焼けた翌年、関東大震災があったんですね。関東大震災では火事の被害が大きかったというところを見聞きして、その対策をこの大阪倶楽部にも施したのではないかと思います。
建物は細部に至るまで装飾がなされ、大正のモダニズムを伝えています。天井の梁などは全室意匠が違うのですが、たぶんすべてのエリア・部屋を違う雰囲気でつくりたかったのではないでしょうか。昔のメンバーは資産家の実業家が多かったので、金に糸目をつけず、什器や備品もヨーロッパで買い付けたものらしいです。
しかし戦争直後は進駐軍に接収され、中はペンキで塗られ、豪華な調度品も進駐軍に粗雑に扱われ使い物にならなくなったそうです。
本来社交倶楽部は、大広間、自前の食堂、ビリヤード場の3つが揃ってはじめて社交クラブと位置づけられました。やはりジェントルマンの館ですからね。ビリヤード台のひとつは、ここのメンバーでもあった実業家の加賀正太郎さんの別荘、京都の大山崎山荘にあったものを昭和28年(1953)に移設されたものです。加賀さんが寄贈してくださったものです。もう100年くらい前のものでしょうが、誂えが良いのでいまも現役です。
当倶楽部は基本的に一般の方々はご利用に制限があります。定期的に公開見学会を行ったり、4階のホールはコンサートや各種講演会、結婚式場などとして一般の方にもお部屋をご利用頂いています。
講師も師匠も一流どころ
現在の活動での一番の特徴は、毎週水曜日に開催している午餐会講演会です。昭和27年(1962)進駐軍から返還されたのを記念してはじまり、今や3100回を数えています。その名の通り、食事をした後講演を聴きます。毎回350~400名くらいの参加があります。
講師には毎回著名人を招いています。政治、経済、外交のほか、文化やスポーツまで幅広い内容で、お医者さんなど健康に関する講演も人気があります。しかし、現職の政治家は政治色が出てしまうのでお呼びしていません。有名な方も多くお見えになり、昨年はノーベル賞受賞者の天野浩教授や各界の著名人、柳田邦男さん、ケント・ギルバートさん、板東眞理子さん、高橋政代さん、谷川浩司さん、為末大さん、野口健さん、弘兼憲史さんなどにご講演いただきました。
あとは同好会活動も盛んですね。ゴルフ、囲碁、小唄、長唄、詩吟、尺八、俳句、写真、絵画など22の同好会が活動しています。特に謡曲は一番歴史が古いのですが、それは昔の実業家たちのたしなみだったのでしょう。
同好会とはいえ、やっぱりこれという師匠をよんでいます。囲碁は井山裕太名人の師匠の石井邦生九段です。謡曲でも昔は人間国宝の先生を毎回東京から招いていましたし、いまも人間国宝の梅若実玄祥先生が年に数回教えに来て頂いています。俳句ですと稲畑汀子先生が教えに来てくださいます。
ほかにも落語を楽しむ会やジャズの夕べなど、さまざまなイベントも開催しています。
男ばっかりだから良い
大阪倶楽部では会員を「社員」とよびます。入社資格は、まず、男性であること。大阪には5つほど社交クラブがありますが、男性しか入会を認めていないのは今やここだけとなりました。このご時世なので女性へ門戸を開くべきなのではという意見もあります。しかし、男ばかりだから良いという方が多数です。そして2名以上の社員の推薦が必要です。午餐会講演会を目的に入社される方も多いですね。
大阪の主な財界人は業種に関係なく、ほぼすべて社員だったのではないでしょうか。設立時の株主には小林一三さん、久原房之助さん、岩井勝次郎さんなど神戸にゆかりが深い財界人もいらっしゃいます。
大同生命の初代社長、広岡久右衛門正秋さんと加賀正太郎さんたちが中心となりいろいろな活動をしていたのですが、当時ゴルフをするには大阪から遠い六甲山の神戸ゴルフ倶楽部くらいしかなかったので、もっと近くにゴルフ場をと2人が発起人になり茨木カンツリークラブを創設したのですよ。しかもプレー後に一杯飲めるようにと、新地のクラブまでつくってしまったようですね(笑)。ちなみに大阪倶楽部には屋上にゴルフの打ちっぱなしが95年前からあります。
社員数は、平成9年(1997)くらいが約1600名と一番多かったのです。その頃は大企業が子会社をつくった時代で、そのトップの方々が入社されたのです。それ以降は子会社が整理されるようになったこともあり、社員数は減ってきています。
昔は企業もOBを手厚く扱っていましたが、最近はそういう対応もできず退職したら「ハイ、サヨナラ」という感じのようです。ですからリタイヤしても知識欲旺盛な方々がここへ来ていただいたら、ある意味刺激のある「第二の人生」を送ることができるのではないかと思います。企業から「卒業」した紳士の受け皿にもなれば良いですね。