4月号
連載エッセイ/喫茶店の書斎から ㉓ イワシのトレトレ
今村 欣史
書 ・ 六車明峰
セピア色した六枚の写真がある。「のじぎく文庫」を企画創設した兵庫県文化の恩人、宮崎修二朗翁から託されたもの。
そのうちの一枚の裏に日付らしきものが記されていて、1950年9月30日と読み取れる。そして、 At Koroen Kwaisei Hos. の文字が添えられている。西宮市香櫨園浜にある回生病院でのものというわけだ。回生病院は野坂昭如の『火垂るの墓』にも登場して世に知られているが、写真には病院が写っているわけではなく、海に面した園庭でのものである。
南側はすぐ香櫨園浜になっていて、当時は海水浴客で大いに賑わった場所。谷崎潤一郎の小説『卍』にはその様子が次のように描かれている。
《「二階はたいへんに見晴らしええのんです。東の方と、南の方と、両方がガラス窓になってまして、それはとても明うて、朝やらおそうまでは寝てられしません。お天気のええ日ィは松原の向うに、海越えて遠く紀州あたりの山や、金剛山などが見えます。(略)海水浴も出来るのんです。(略)夏はほんまに賑やかやのんです。」》 この小説を書いたころの谷崎は、まだ関西弁がぎこちないが、正に当時の回生病院辺りからの景色である。
写真の日付の1950年といえば、わたしは七歳。戦争の傷跡がまだあちこちに残っていたころだ。スーパーマーケットなんてものはまだ現れておらず、町には物売りの声が響いていた。
魚屋のおばさんが荷車を引いて「イワ~シのトレトレ~」と毎日のように売りに来る。かと思えば化粧品屋のおじさんが「クリームにポマード、髪油などいろいろございま~す」と自転車に木箱を積んでやってくる。これには独特の節があって音符で表したいほど情緒豊かだった。さらに「みが~きずな~⤴、みが~きずな~⤴」と、磨き砂屋さんの売り声。化学洗剤が出回る以前のことである。いずれも今では想像もできない話。
ほかにもいろんな売り声を聞いたものだが、最も印象的なのはやはり「イワ~シのトレトレ~」だろう。あの時代の匂いまでが漂ってきそうな懐かしい思い出である。
話が横に行ったが、なにが言いたいかというと、“イワシのトレトレ”なのである。
実は、必要があって、富田砕花遺歌集『嘱目散趣』のページをパラパラと繰っていた。すると目に飛び込んできたのが、「阪本勝悼歌 昭和五十年三月」と詞書がある四十首ほどの中の次の歌。
香櫨園浜の鰯のとれとれを渚に焼きて
酔いし勝ら
“勝”とはもちろん、文人知事と呼ばれた阪本勝氏のことである。
こんなところにこんな歌があったのだ!知っていれば昨年出版した拙著『触媒のうた』に取り入れたのに、残念。
~宮崎修二朗翁の文学史秘話~と副題したその本には宮崎翁の言葉を次のように紹介している箇所がある。
《「その病院のすぐそばの浜辺で、多くの文化人を集めて酒盛りを何度かやりました。浜で獲れたトレトレの鰯を炭火で焼いてね。院長の菊池さんに僕が頼んで催したんですよ。小野十三郎、安西冬衛、阪本勝、田村孝之介、富田砕花、大澤壽人、牧嗣人などを集めてね」
宮崎翁、まだ国際新聞におられた昭和二十年代の話である。》
この中の大澤壽人は、戦前に活躍した作曲家だというが、今また再評価を受けて神戸文化ホールなど各地で演奏会が開かれて注目を集めているようだ。
というわけで託された六枚の写真は、正にこの時の“トレトレのイワシ”なのである。
その写真を見る。
夜の香櫨園浜である。暗い樹木の枝から裸電球がぶら下がっている。
地面に炉が設えてあり、畳一枚ほどの鉄板の下では炭火が燃えている。辺りを靄のような煙が漂い、イワシの匂いが漂っているのだろう。その周りで車座になっている人はネクタイ姿が多く、いかにも文化人然としている。しかし、お皿を頭上に掲げて男性と腕を組む女性や、フラダンスらしきものを踊っている女性も。若き宮崎翁は一升瓶を隣の男性の頭上に掲げていて、作曲家の大澤壽人が開襟シャツの前をはだけてすっかりくつろいでいる。さらに富田砕花氏の上機嫌の笑顔がある。大笑いしてふざけている男性もあって、嬌声が飛び交う様子がありありと写っている。
この宴会の仕掛け人が宮崎修二朗翁(現96歳)。今、「翁」と書いたが当時28歳の若さだ。
翁はおっしゃる。
「今から思えば不思議な時代でしたね。なにか熱に浮かされたような」と。
因みに、阪本勝氏には『荒磯に鰯を焼く』(彩光社・昭和38年)という著書がある。これは但馬海岸でのことだが、阪本知事といえばわたしは“イワシのトレトレ”を思い浮かべてしまう。
■六車明峰(むぐるま・めいほう)
一九五五年香川県生まれ。名筆研究会・編集人。「半どんの会」会計。こうべ芸文会員。神戸新聞明石文化教室講師。
■今村欣史(いまむら・きんじ)
一九四三年兵庫県生まれ。兵庫県現代詩協会会員。「半どんの会」会員。著書に『触媒のうた』―宮崎修二朗翁の文学史秘話―(神戸新聞総合出版センター)、『コーヒーカップの耳』(編集工房ノア)ほか。