4月号
商人? 新聞人? 数寄者? 茶人? 村山龍平の横顔
朝日新聞社の創業者にして国会議員も務めた村山龍平は、財界人、政治家のみならず文化人としても一流であった。彼はなぜ美術や茶の湯を愛したのか。それには生い立ちや若かりし頃にもヒントがあるようだ。
その少年、危険につき…
村山家はもともと武士の家柄で、代々伊勢の田丸藩藩士として久野家に仕えていた。田丸藩は小藩なれど熊野の入口にして伊勢神宮の外衛の重要地点にあり、久野家は紀州徳川家の御附家老も務め、尚武の気風が強かったという。ちなみに田丸城趾は後に龍平が払い下げを受け購入、田丸町に公園として寄贈し、現在も親しまれている。
代々村山家の当主は健康長寿な人物が多く、龍平の祖父、村山敬忠(閑斎)は腹に縄をぐるぐる巻いたのを「ふん」と気合いでぶち切ったという。しかし、腹筋には恵まれたようだが男子には恵まれず、跡継ぎに養子を迎え、後に娘(四女)の婿となる。この人物が龍平の父、守雄だ。
守雄は忠敬と逆、体力より知力の人で、国学に造形が深かった。その知性を藩主に認められ、紀州徳川家の和歌山藩邸の子弟に文学を教えただけでなく、藩学の設立に関わった。和歌山から田丸に戻された後は砲台構築や兵舎建設など軍事御用を任され、測量を学んだ。その頃はまさに幕末、攘夷ムードで海岸防衛が喫緊の課題だった。その重要な任務の主軸になったことからも、優秀な人材だったことがうかがえる。
守雄の妻にして敬忠の娘、鈴緒は、父の血を受けてか、勝ち気で長刀など武芸の心得もあった一方で、家事はすべて完璧。特に裁縫の腕は近所の人も一目置く名人だったという。
そんな二人を父母に、村山龍平は嘉永3年(1850)に伊勢田丸で誕生、幼名を直輔といった。幼少の頃はかなりのわんぱく小僧で、近所の町方の子どもが泣かされ、母が近所に謝りにいくことしばしば。寺子屋も乱暴がもとで退学。成長してますます粗暴になり、「天下の暴れ者になるだろう」と噂され、「村山の五右衛門」というあだ名までついた。
一方で決めたら一徹、祖父から体力を受け継いだのか、剣道と水泳が得意で、砲術にも熱心だった。また、幼少の頃から刀剣を愛好し、15歳の頃には銘を言い当てるようになったという。武士の時代が続けば素晴らしい侍になったかもしれない。
商売人として実力発揮
ところがそうはいかず、武士の時代は終わりを告げ、明治を迎えた。すると守雄は旧藩士としての特権を辞退し、一家を挙げて大阪の京町堀へ移住、船載雑貨を商う引取屋を開き、後に西区の戸長、世話役も務めた。
龍平は思春期を過ぎた頃から暴れん坊を卒業、冷静沈着な少年へと生まれ変わり、大阪へ出てからは村山家の屋台骨に。商売人として生きる決意をする。
明治5年(1872)、商号を「田丸屋」として引取屋、村山商店は出発、洋布、服飾雑貨、生活雑貨、文具、食品、生活必需品日用品など幅広く商った。引取屋とはいわゆる輸入業だ。龍平は武器を通じ、西洋ものに精通していた強みがあったものの、商売は素人。そこで、洋物問屋で成功していた芝川又平を訪ねて教えを請うた。又平は何の縁故もないのに真正面からやって来た龍平に驚いたが、やがて素質を見込んで信頼、龍平の事業をサポートした。
龍平は22歳で村山家の家督を相続。商売は上手くいき、明治9年(1876)には醤油問屋の木村平八と共同経営で西洋雑貨を扱う玉泉舎を設立し、事業を拡大する。実現はしなかったが、石油国産化やガラス製造も画策、その慧眼には驚く。木村平八は鳴尾の出身で、守雄とは戸長仲間で親しかった人物だ。さらに、芝川又平の息子らと株主を募りその希望する物品を購入配給する機関、つまり現在の生協のような事業を企てるなど、龍平は商売の街、大阪でメキメキと頭角を現し、五代友厚が中心になって設立された商法会議所(現在の商工会議所)の議員まで務めるようになっていく。
ところが親しかった木村平八の息子、騰が突っ走って立ち上げた新聞事業に、平八親子から懇願され関わることに。かくして資本主が木村平八、社長が村山龍平、木村騰を実質的な経営者として新聞事業がスタートし、明治12年(1879)1月25日、大安吉日の日に朝日新聞の創刊と相成った。
龍平は朝鮮貿易に乗りだしたこともあり、商売が忙しく当初はあまり新聞事業に積極的ではなかったが、とある事件を契機に社内一の実力者となり、やがて明治14年(1881)に木村家から朝日新聞の所有権を譲り受けた。その後は篠山出身で武家の出の上野理一とタッグを組み、日本を代表する全国紙へと飛躍させただけでなく、さまざまな事業を展開したのはご存じの通り。その活躍を書くと紙幅が足らぬので割愛する。
刀剣から古美術へ
前述の通り、武家の出の村山龍平は幼き頃から刀剣を愛で眼識を養ってきたが、本格的に剣の収集をはじめたのは明治17年(1884)頃のようで、多忙な中、鑑定会にもちょくちょく顔を出したという。
明治20年代からは美術品の収集にも手を伸ばす。その頃は欧米化が進んで、西洋のものは進んでいて日本のものは遅れているという風潮があり、日本のすぐれた美術品はどんどん海外へ流出していた。村山はこのような状況を危惧し、私財を投じて国の宝である日本や東洋の美術品を守ろうとしたのだ。最初は刀剣のほか、仏画や古画の収集に熱心で、やがて茶道具へとたどり着く。かつて引取屋で多彩な商品に触れ、自然と審美眼が磨かれていたのだろうか、そのコレクションは一級品揃いだ。ちなみに、上野もまた古美術収集を愉しんだが、その入口は茶器で、光琳を好んだという。
ほぼ同時期、村山と同様の危機感を抱いていた岡倉天心と高橋健三は明治22年(1889)に美術誌『国華』を創刊した。しかし、採算度外視だったためすぐに運営は傾く。そこで高橋と知己であった村山と上野が支援、経営を引き受け、両名が没した後の昭和14年からは朝日新聞が受け継いで現在もなお発行されている。
村山は明治33年(1900)頃、当時六甲山麓の荒れ地だった御影郡家に土地を取得、屋敷を構えた。その広さ数千坪で、美術品をどれだけ集めても大丈夫というレベルを軽く超越していた。大阪の商人たちは「村山は正気を失ったのではないか」と呆れたが、これがやがて阪神間モダニズムを下支えする郊外住宅地の先駆けとなり、呆れた商人たちも後々、村山に倣いこぞって郊外に別荘や邸宅を求めることとなった。
茶の湯に映る武家の魂
村山龍平は茶道家としても知られている。もともと茶道具の買い付けに付き添ってもらうなど、茶道家の藪内節庵と交流があったが、幼い頃から茶道に親しみ、明治25年(1892)頃から本格的にお点前を愉しんでいた上野理一とは対照的に、なかなか節庵の誘いに乗らず、ようやく齢50を過ぎた明治35年(1902)頃からお茶をはじめた。節庵に師事してからは厳格に子弟の関係を守ったというのも武家の出らしい。
面白いエピソードがある。インドの詩人、タゴールは来日した際、村山に日本の茶道を体験したいと申し出て、御影の村山邸で節庵を招聘し、茶席が開かれた。その際、タゴールは茶道具を熱心に鑑賞したが、茶入れに千利休の花押があり、それを村山が「かおう」と説明したのを、通訳が「顔」と聞き違えて訳し、タゴールに伝えた。タゴールは何度も花押を繰り返し凝視し、「これはどうやったら顔に見えるのか?」と質問、通訳の間違いと分かり、みな破顔一笑したという。
藪内家の茶道は武将でもあった古田織部の影響を受け、男性的といわれる流派で、武家出身の村山の好みに合ったようだ。戦国の世では武将たちが狭い茶室で談義をしたというが、近代になると船場の粋な文化の影響もあってか、大阪では実業家が茶の湯でコミュニケーションをとるようになった。明治35年(1902)に村山は上野と藤田組の藤田傳三郎とともに茶の湯の会「十八会」を立ち上げ、住友財閥の住友吉左衛門(春翠)、白鶴の嘉納治兵衛(鶴堂)ら錚々たる18名が集った。明治41年(1908)には藪内節庵を中心に「篠園会」が立ち上がり、村山龍平(玄庵)、上野理一(有竹)、藤田傳三郎(芦庵)のほか、野村財閥を築いた2代目野村徳七(得庵)や山口財閥の4代目山口吉郎兵衛(滴翠)らも加わり、家元の竹翠や竹窓も迎えられた。彼ら数寄者たちはおのおの収集した道具を取り合わせて順番に茶会を開いたが、後に村山=香雪美術館、藤田=藤田美術館、野村=野村美術館、山口=滴水美術館と、それぞれのコレクションで美術館が建つことになる。
村山は家元の茶室、燕庵の写しを建てることを許され、昭和3年(1933)に没した際は、家元の竹窓から免許皆伝と村山紹龍の号が贈られるなど、藪内家との絆は強かった。
村山の愛した美術品や茶道具は、御影の屋敷に昭和48年(1973)開館した香雪美術館(「香雪」とは村山の号)に受け継がれ、これからもわが国の宝として大切に守られていくだろう。
(文責・「月刊神戸っ子」編集部)
参考資料
朝日新聞本社社史編集室編『村山龍平傳』
「阪神間モダニズム」展実行委員会編著
『阪神間モダニズム 六甲山麓に花開いた文化 明治末期~昭和15年の軌跡』
香雪美術館ホームページ
茶道藪内家ホームページ ほか