9月号
触媒のうた 19
―宮崎修二朗翁の話をもとに―
出石アカル
題字 ・ 六車明峰
穎田島一二郎さんが代筆したという三浦光子の『悲しき兄啄木』をわたし、図書館から借りて来ました。ところがこれ、昭和23年に初音書房から出たものではなかった。1990年に「近代作家研究叢書77」として出た復刻版だ。しかし、これが幸いした。
この本、いわば研究書である。『悲しき兄啄木』だけでなく、附録として、昭和五年に書かれた「兄啄木の思い出」という文などが収録されている。さらに解説を上田博氏が担当しておられ、その内容が興味深い。その一部。
―本書の附録とした「兄啄木の思い出」は、啄木の遺児京子と結婚した石川正雄の創刊した『呼子と口笛』に寄稿した回想記である。(略)「思い出」の内容が『悲しき兄啄木』に重なりがあり、本書に収めるに多少のためらいがあったが、(略)「思い出」と『悲しき兄啄木』の文体の著しい相違の問題を考える必要性があることである。本書の読者はすぐに気付かれることと思うが、「思い出」の文章の感傷的な印象とは対照的に『悲しき兄啄木』はきびしさを感じさせる硬質の文章である。―
わたしも読み比べてみました。ほとんど同じことが書いてある部分が多いです。しかし微妙に変えてある。思うに穎田島さんは、光子さんから聞き取りしながら書かれたのだろうが、過去に書かれたこの「思い出」をテキストにされたに違いない。一例を上げよう。
「思い出」より
―小さい石橋を渡りますと、門のかはりにかなり大きなしだれ柳が二本道の両側に立つてゐました。そして檜の木の生垣を作つて居る道を通つて境内に這入つてまゐりますと、右手に大きなくわゐの池がございまして、それが兄と私との遊び場の一つであつたのです。―
次に『悲しき兄啄木』より
―小さい石橋。それを渡ると、門のかはりにかなり大きな枝垂柳が二本両側にたつてゐる。そこを入つてシバの生垣が作つてゐる道を通つて境内に踏みいると右手にくわゐの植つてゐる大きな池がある。これも兄啄木と私のよき遊び場の一つでした。―
これはほんの一例だが、どうでしょうか、作為的なものを感じませんか?
解説の上田氏は知らないことだったのだろうが、“穎田島さんの代筆”に合点が行く。
上田氏はさらに書く。
「光子の冴えた回想とムダのない語りの文章」
わたし、これによってなおさらに宮翁さんの話の信憑性が裏付けられた気がします。
さて穎田島さんと宮翁さんの関係だが、戦後のある時期から深いお付き合いをしておられる。
歌人として名前の知られた穎田島さんだが『カール・ユーハイム物語』という著書がある。神戸の有名菓子会社の創業者の伝記だが、これは宮翁さんの企画によるものだと。
「戦後の一時期、朝鮮から引き上げて来られて、西宮の甲東園の知り合いの家に間借りしておられましたが、泥棒に入られて困っておられて、知り合いがみんなでお助けしたり、僕が国際新聞時代には、ちょっと強引なコネを使って、尼崎市東七松町に家をお世話したりということがありました」と、なかなかのお付き合いである。このあたりの翁のお話、もっと詳しく聞きたいのだが、いささか歯切れが悪い。要するに宮翁さんの出来る範囲で支援しておられたということであろう。
「神戸新聞に移ってからもいろいろ書いて頂きました」と。
この代筆問題、穎田島さんとの濃密な親交の中で翁はその事実を知り得たということであろう。「亡くなられて久しいですから、もういいでしょう。穎田島さんはゴーストライターと呼ばれることに抵抗があったのでしょうね。証になるようなものは一切残しておられません」と。
ところで、啄木の妹、光子さんである。
明治43年、芦屋市公光町の聖使女学院(婦人伝道師養成学校)に入学ということである。その場所にはいま「芦屋聖マルコ教会」が現存している。わたし出かけてみました。
閑静な住宅街の中で目立たぬ佇まいである。写真だけを写して帰ろうと思ったのだが扉が開いている。せっかくだから入らせて頂き声をかける。が、返事がない。で、隣接する住居に声をかける。と、上品な中年女性が応接して下さった。自己紹介をして「写真を撮らせていただけますか?」とお願いした。すると礼拝堂の扉を開けて案内して下さった。外からの印象とは随分違う。思いのほか広く天井も高い。正面の十字架が重々しい。ここには本物の信仰が息づいていると感じた。
傍らに古びたオルガンがある。相当に古いものだ。もしかしたら戦前のもの?まさか光子が触れたというようなことはないだろうが。
聞けば、今年が聖マルコ教会100周年なのだと。なにか不思議な縁を感じます。
つづく
出石アカル(いずし・あかる)
一九四三年兵庫県生まれ。「風媒花」「火曜日」同人。兵庫県現代詩協会会員。詩集「コーヒーカップの耳」(編集工房ノア刊)にて、二〇〇二年度第三十一回ブルーメール賞文学部門受賞。喫茶店《輪》のマスター。