7月号
草創期の関西学院と神戸
ランバス父子と神戸
1868年(慶応4)に開港した神戸には外国人居留地が設けられ、1873年(明治6)のキリスト教解禁を契機にその布教活動は盛んになっていった。
アメリカ南部のプロテスタント教派、南メソヂスト監督教会が日本に海外宣教部を設置することを議決。その使命を受けたのが、関西学院の創立者、W・R・ランバスであった。
彼は1886年(明治19)、日本宣教部の総理として中国から来日し、居留地47番館(現在の大丸神戸店東側)に読書室を設けた。ミズーリ州のパルモア牧師より寄付を受けたことから、翌年これをパルモア学院と命名、神戸の英語教育の拠点となった。また、南美以美神戸教会(現在の神戸栄光教会)の初代牧師に就任した。
神戸での布教に尽力した「関学の祖父」、J・W・ランバスは神戸で没し、今も修法ヶ原の外国人墓地に眠っている。
原田の森と関西学院
1888年(明治21)、W・R・ランバスは、キリスト教に基づく青少年教育のための学校を開設することを提案、審議の結果、神戸に男子校を設立することになった(女子校は広島)。しかし、当時の神戸市内は地価高騰のため、神戸市郊外の兔原郡原田村(現在の王子公園周辺)に約1万坪の敷地を購入、ここに木造の校舎を建て、1889年(明治22)、関西学院を創立した。当時の生徒はわずか19名であった。
当初のキャンパス周辺は狐やリスが顔を出す鬱蒼とした「森」だったようだが、やがてレンガ造りの校舎や本館などが整備され、1904(明治37)にはブランチ・メモリアル・チャペル(現在の神戸文学館)が建立された。
ちなみにW・R・ランバスの母、M・I・ランバスは1888年にランバス記念伝道女学校を神戸に設立したが、これは関西学院大学教育学部(旧聖和大学)のルーツになっている。
発展、そして移転へ
神学部と普通学部でスタートした関西学院は、1912年(明治45)には高等学部(文科・商科)が開設され、やがて大学昇格運動が始まった。大学開設のためには、資金が必要だった。外国資金に頼るのではなく、自力による資金調達の道を探り始めた関西学院に、タイミング良くキャンパス移転の話が飛び込んできた。候補地はいくつか挙がったが、1926年(大正15)、阪神急行電鉄が原田の森の校地・校舎を買い取った上で、関西学院が同社の上ケ原の土地を購入することが決定。阪神急行電鉄の小林一三との間で正式に契約を交した。1929年(昭和4)の3月末日、関西学院は西宮に移転した。奇しくも当時原田の森があった西灘村は、その翌日に神戸市に合併・編入された。
以降、関西学院からは多くの学生たちが羽ばたき、卒業生は神戸でも経済から芸術まで幅広い分野で活躍。一方、原田の森の周辺はその後、さまざまな学校が学舎をおき、今や神戸屈指の文教地区になっている。
神戸なくして関西学院なし。神戸にとってもまた、関西学院の存在は大きなものである。
〈参考文献〉
関西学院発行『関西学院の100年』
田辺眞人監修『灘の歴史』
池田裕子『関学タイムトンネル』
神戸市立小磯記念美術館発行
『関西学院の美術家~
知られざる神戸モダニズム~』