10月号
ファンの声を力に変えて社会に貢献したい 対談 桧山進次郎 × 橋本覚
4番として阪神タイガースを優勝に導き、「代打の神様」としてコールだけで甲子園を沸騰させた桧山進次郞さんが、初代ジャガーXJディーラーアンバサダーに就任した。現役時代の裏話、ジャガーの魅力、社会貢献などについて、ジャガー・ランドローバー神戸中央を展開する(株)神戸マツダの橋本覚社長と語り合っていただいた。
対談
(株)神戸マツダ 代表取締役社長 橋本 覚さん
元阪神タイガース 初代ジャガーXJディーラーアンバサダー 桧山 進次郎さん
この一打に賭けろ!
─昨季までの22年間の現役生活を振り返っていかがですか。
桧山 よく出来たよなというのが素直な気持ちです。厳しい世界で22年間、しかもタイガース一筋でプレーできたことは、自分にとって大きな宝物みたいな感じです。
橋本 私は生まれた時から阪神ファンで(笑)、幼い頃から阪神ファンの父に年に数回甲子園に連れて行ってもらい、知らず知らずのうちに染まっていました。古くは村山投手、江夏投手、田淵選手、藤田平選手…
桧山 錚々たるメンバーですね。
橋本 あとカークランド選手とかバース選手とか。でも一番印象に残っているのは、昨年のクライマックスシリーズの桧山選手ですよ。あの打席でホームランとは!プロ生活が凝縮された集大成の一打。現役最後の打席でなかなかできるものではないと、家族みんな涙ぐんでいました。
桧山 自分でも信じられない一打でしたね。たぶん22年間で一番良い打ち方をしていました。インパクトだけに力が入ってバットがスポーンと抜けた感じで。もう一回打ってみろと言われてもたぶんムリです(笑)。
橋本 代打で満塁ホームラン、たぶんヤクルト戦だったと記憶していますが、7対2の場面で1点差まで追い上げたことがありましたよね。必要なときに必要なことができる一打席、一球の集中力というのはなかなかまねができるものではないと思います。レギュラーと代打ではやっぱり違うのですよね。
桧山 全く別世界だと思うようになってから、良い結果が出るようになりました。レギュラーですと毎試合4打席ほど出番があって自然とリズムがあるのですが、代打になりたての時はそのリズムを作ることばかり思い描いて。逆に体も頭もついていっていなかったのですが、ある日突然、リズムがないものだと考えを変えてから心の揺れがなくなりました。心が動揺すると、それが相手ベンチにもわかるものなんです。ですから完全に準備が出来ていなくて「勘弁してくれよ」と思っている時でも、それを表に出さず平然と「わかりました」といくことで、周りの選手にも動揺を与えず、相手にもそう見せるとともに、自分も冷静になれるのです。ヤクルト戦の一打もそんな状態でしたね。
橋本 代打の場合はいつ言われるかわからないですからね。代打が別物だと考えられるようになったのは、誰かのアドバイスですか。
桧山 自分で考えました、2年間悩んで。代打で結果を出さないことには自分の職場を失いますし、レギュラーに戻ることもできませんから。川藤さんや八木さんにも「割り切らないと良い結果は出ないぞ」と声をかけてもらいましたね。例え結果が出なくても、堂々と帰れるような選手になれ、それがタイガースの伝統だと。でも…僕は最後までレギュラーに戻りたかったですね(笑)。
─ファンの声援は届いていましたか。
桧山 声援が心を奮い立たせてくれましたね。冷静に考えれば、あの声援は対戦チームにとって大きなプレッシャーにもなったでしょう。
橋本 甲子園のファンは凄いですよね。ところで、対戦した投手の中で一番手強かったのは誰ですか。
桧山 「大魔神」ベイスターズの佐々木主浩投手です。フォークは2階3階から落ちてくるような感じで、自分の体もつられて落ちてしまうというか。真っ直ぐも速かったですね。
もはや車はファッションに
─桧山さんがレギュラーに定着したのは1995年、阪神・淡路大震災の年でしたね。
桧山 寮を出て一人で住んでいたのですが、あの揺れは驚きました。あの年期待に応えられなかったのは心残りでしたが、2003年にやっとファンの人たちとともに喜べたことで報われた思いがしました。
橋本 私はあのときニューヨークで銀行勤務をしていたのですが、ニュースを観て驚きました。会社は社員の頑張りもあり、兵庫から明石へ本社を移して営業しました。特に全壊認定された灘店が、来年震災20年の節目を迎えるにあたりリニューアルしたのは感慨深いものがありますね。
─2000年にバンカーから転職されて(株)神戸マツダの社長に就任されました。ジャガー・ランドローバーの販売にも力を入れておられますね。
橋本 昔から気になっていたブランドでしたので。明石と西宮に販売店を設け、2011年には旧居留地にもウォークイン型のショールームをオープンしました。車は耐久消費財とは言え、ショッピングのアイテムには変わりないので、旧居留地らしいブティックのようなショールームにしました。ジャガーやランドローバーもブランドの一つですから、他のブランド店と同様に受け入れられています。
─ジャガーはどんなイメージですか。
桧山 妻がランドローバーに興味があり、一緒に西宮店に行きました。そこでジャガーを見たんですが、こんなに格好良くなったの?って思いました。昔のジャガーのイメージはダンディーでクラシックという感じでしたが、それがガラリと変わってスポーティになり、世代を超えた車になっているなと。
橋本 コンテンポラリーなデザインですので、30代や40代の方に乗っていただきたいですね。エネルギーに溢れ、経験もできてきているし、人生で一番アクティブな時期ですよね。そういう人たちに一番合う車だと思います。来年くらいからまたガラリと変わって、よりエネルギッシュな方向に向かいます。しかもなおかつ「速い」という…
桧山 ちょっとヤバいですね(笑)。高速道路で走ると重心が沈んで安定して、何キロでも出てしまいそうですもんね。重心が沈んだ瞬間に、何だか少し軽くなるんですよ。乗ると楽しい車です。
橋本 地面に吸い付くように走りますから、高速でも怖さがないのです。私も長距離の時に良く乗りますよ。運転しても疲れませんしね。
─桧山さんにジャガーXJアンバサダー就任を依頼したのはなぜですか。
橋本 まさに乗っていただきたいのは桧山さんの世代で、いま活躍している旬の方々なんですよね。阪神一筋で、レギュラーから代打に移っても抜群の集中力でファンに感動を与えたというところも魅力で、本当に相応しい人物だと思います。
桧山 同世代の方々にPRして貢献できればと思います。
心を通わせ、心を動かす
─お二人とも社会貢献に力を入れています。桧山さんは母子生活支援施設で暮らす子どもたちの招待や、児童養護施設への図書費寄付、自主トレ先のグアムの福祉施設でも交流を持たれていますが、活動のきっかけはなんですか。
桧山 もともとは2003年、選手会長をしていた時なんですけれど、球団が震災で親や家族を失った子どもたちを支援するあしなが育英会の子どもたちを招待したんです。その時に僕の大ファンだという小学生の女の子がいて、施設にも来てくださいと。それで、オフに行ったら、子どもたちとふれあうことで自分もパワーをもらっているなと感じたんです。辛い思いをしているのに、そんな姿を一切見せず明るく生活している子どもたちに心を打たれ、もっと社会に貢献しないといけないと思いましたね。その子は大学生になって甲子園で売り子をはじめたんです。スタンドで僕のタオルを巻いて手を振ってくれるので、僕もシートノックの時に「いっぱい売りや!」と励ましたりして(笑)。東日本大震災の時も、交流戦の合間に被災地を訪問しました。
橋本 我々も、岩手県の宮古市や陸前高田市でボランティア活動をおこないました。事業は誰のためにあるのだろう?会社は何のためにやっているのだろう?ということを考えると、自分たちに関わるすべての人たちがいて自分たちがあるから、その人たちに愛されれば事業はなくならないと。ですから、その人たちを幸せにすることからはじめようと思ったのです。本社近隣の清掃作業も、地域への恩返しという思いです。今後も続けていきたいですね。
─桧山さんは引退試合で「日本一という忘れ物を必ず獲りにいきます」とおっしゃいました。やはり選手を率いてもう一度…
桧山 いえいえ、あの時点では優勝は逃したもののまだCS前で、チームを奮起させる意味でも、将来という意味でもどちらでもとれる「意味深発言」だったんです(笑)。でも結局CSであっさり敗退して…。将来的には縁があればまたユニフォームをと思いますが、そのためには待つだけではだめで、もう一度野球の勉強をし直して、もし声がかかったときにはそれなりに準備できていないといけませんね。
橋本 それこそ代打の時のように、「はい、わかりました」と引き受けられる準備ができていたら素晴らしいですね。プロ野球には人の心を動かす力があると思いますが、我々の仕事もお客様の心を動かすことが大切です。売り手買い手の関係ではなく、お客様と一緒にカーライフを創っていき、最終的に感動していただけるよう、雰囲気づくりやスタッフ育成などに努めたいと思います。
桧山 進次郎(ひやま しんじろう)
野球解説者・スポーツコメンテーター
1969年生まれ。元プロ野球選手(外野手)。現役時代は阪神タイガース一筋で22年間所属、2度のリーグ優勝を経験する。背番号は24。2013年に現役を引退し、2014年からは野球解説者・スポーツコメンテーターとして活動中
橋本 覚(はしもと さとる)
㈱神戸マツダ 代表取締役社長
1961年生まれ。1985年一橋大学法学部卒業、同年住友銀行(現三井住友銀行)入行。ボストン大学にて国際銀行法学修士取得・ニューヨーク勤務等を経て1996年退職。同年㈱神戸マツダ代表取締役社長就任。2009年全国マツダ販売店協会副会長就任