8月号
浮世絵にみる 神戸ゆかりの「平清盛」 第8回
中右 瑛
女人哀史 世を捨てた祇王祇女と仏御前
清盛の秘めたるロマンス。清盛を巡る女人たちは多い。一見、華やかであるが、そこには次々に世を捨てた源平女人哀史が秘められている。
祇王祇女、仏御前の話もそうだ。
絶世の美女の祇王は白拍子の誉れ高く、その美貌と芸で清盛を魅了し、妹の祇女と共にその余慶にあずかる。
清盛の祇王祇女に対する寵愛ぶりは、周囲の者も羨むほどのものであった。別邸を与え、祇王祇女の母を呼び寄せ、三人は幸せな日々を過ごしていたのである。
三年を過ぎたある日、加賀の国出身の十六歳の白拍子・仏が清盛邸に芸を売り込むために推参、しかし
「同じ白拍子の祇王があるところへは目通りは出来ぬ」
と、清盛は拒んだ。
仏がすごすごと帰りかけると、見かねた祇王は
「見れば年少で、舞姫として同じ身の上、他人事とは思われない。一度ぐらいは見てあげては」
と、祇王の進言で邸に入れる。
がしかし、この思いやりが裏目に出た。
仏は清盛の目前で舞を披露した。仏の可憐な美しさに清盛は心を奪われ、それ以来、仏御前と呼んで寵愛した。
仏御前の出現で、祇王は一瞬にして身の不幸を招いてしまった。清盛の心変わりとなり、それだけではない仏御前へのもてなしも強要され、屈辱の日々を過ごした。
新しいライバルの出現で、祇王祇女は清盛邸を追い出された。清盛邸を出る際、祇王は
歌を一首、ふすまに書き残した。
「萌えいずるも 枯るるも同じ 野辺の草
いずれか秋に 逢はで果つべき」
「今の自分と同じように、いつかは飽きられ捨てられる運命」という意味であろう。祇王は仏御前を怨み、悲しみのあまり世を捨て、祇王祇女は母と共に髪をおろして尼となり嵯峨野にこもった・祇王は二十一歳、祇女は十九歳、母は四十五歳だったという。
今までの思いのままの優 雅な生活から一転して世捨て人になり、人生の悲哀を感じながら読経三昧の生活を過ごしていたのである。
翌年の秋のこと、嵯峨野の草庵に一人の尼が訪ねてきた。それは仏御前だった。
仏御前は、自分のために世を捨てた祇王祇女に対する罪の意識に苛まれ、祇王の身がいつか我が身になろうと、憂い世の無常を悟り、尼になった。
祇王の心は和らぎ、感涙にむせいだ。四人は旧怨を忘れ、草庵で共に暮らしたという。
世のはかなさ、女人の心優しさ、哀しさが鮮やかに織りなされている。
いま、祇王祇女の塔は、兵庫区の来迎寺(通称・築島寺)にある。
中右瑛(なかう・えい)
抽象画家。浮世絵・夢二エッセイスト。1934年生まれ、神戸市在住。
行動美術展において奨励賞、新人賞、会友賞、行動美術賞受賞。浮世絵内山賞、半どん現代美術賞、兵庫県文化賞、神戸市文化賞など受賞。現在、行動美術協会会員、国際浮世絵学会常任理事。著書多数。