8月号
猛スピードで変化する環境に適応し、さらに時代の一歩先を読む
毎日放送アナウンサー
高井 美紀 さん
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シスメックス株式会社
代表取締役会長兼社長 CEO
家次 恒 さん
日本を代表するグローバル企業が神戸にある。今年2月、創立50周年を迎えたシスメックス株式会社。
ここまでの成長を支えてきた家次恒社長に、時代の一歩先を読む成長戦略と
ユニークなアイデアを、アナウンサー・高井美紀さんがお聞きしました。
創立から50年、グローバル企業へと成長
高井 50年前、シスメックスはどういった経緯で設立されたのですか。
家次 1960年、日本では昭和30年代半ばですから国民皆保険制度ができ、「人間ドック」が言われ始めたころ、創業者がアメリカへ行き、「これからのビジネスは医療だ」と判断し、医療用電子機器業界への進出を決めました。研究室を立ち上げ、製品が出来上がり、68年、医療機器販売会社「東亞医用電子株式会社」として設立し、創立30周年を迎えた98年、ブランド名であった「シスメックス」に社名を変更しました。
高井 家次さんが入社されたのは。
家次 84年に私の義理の父である創業者が亡くなりました。その約2年後、勤めていた当時の三和銀行を辞め、入社しました。
高井 入社後はどういった改革をすすめられましたか。
家次 まずは、上場するために制度改革から始めました。技術的な部分は強くても、人事制度、原価計算制度といったところが弱いというアンバランスがありましたので、上場のためにはバランスを取らなくてはならなかったのです。
高井 今や、世界約190カ国に輸出するグローバル企業ですね。
家次 90年代の輸出は欧米中心に代理店を通して売ってもらうという形を取り、輸出と国内向けがちょうど今の逆程度の割合でした。現在、売り上げの約84パーセントが輸出です。シスメックスは、検体検査に必要な機器・試薬、関連ソフトウェアの開発、製造、販売、サポートを行っていますが、現在、血球計数、血液凝固、尿沈渣検査の分野においてグローバルナンバー1のシェアをもっています。
ものづくりで大切なのは、使う人の立場で考えること
高井 そこまでの企業に育て上げるための策もいろいろと講じられたのでしょうね。
家次 ひとつは、91年にイギリスで代理店を買収したのを皮切りに、直接販売という形をとったことです。
高井 どういう理由があったのですか。
家次 代理店経由で販売していると、お客さんの情報が正しく伝わってきません。これではいけないと考えていたころでした。幸いなことに90年代、EUができヨーロッパがひとつになりました。それぞれの国の代理店が今後どうするかと思案し始めていましたので、そこを買収していき、ヨーロッパでは直接販売のネットワークを作ってきました。
高井 お客さんの声を直接聞くことができるようになったのですね。
家次 そうです。二つ目はアジアフォーカスへと切り替えたことです。90年代、漢方医学が主流の中国は大きなマーケットではなく、欧米製品の中古品が流通していました。検査結果が英語で出てきますので中国人にはほとんど分からず、手づくりの辞書を使って、とても時間をかけて解読していました。大変だったと思います。メーカーがお客さんに対して全くフレンドリーではなかったのですね。そこで90年代の終わり頃に、技術者20人ほどを派遣して現地の声を聞き、中国向けの機器を開発しました。こうして中国でのマーケットシェアを取り、ブランドイメージを固めました。
高井 使う人の立場で製品をつくるということですね。
家次 ものづくりにとって一番大切なことです。当時、発展途上だった中国に対しては、みんな上から目線でした。使う人に対して絶対に上から目線ではダメです。
そしてもうひとつ大切なことがサービス&サポートの充実です。医療機器というのは正確さを担保しなくてはいけませんから、ビジネスモデルを転換する必要がありました。検査機器とそれに必要な試薬をお届けしていましたが、サービスは無料というのが日本の常識でした。もちろん保証期間は設定しますが、それを過ぎるとサービス&サポートは保守契約の形態を取っています。これが大きな収益源になります。
しかし、今まで無料だったものにお金を払ってくださいと言っても、お客さんは誰も納得してくれません。自ずとお金を頂くに見合うサービスにレベルを上げなくてはいけません。そのためにシスメックスは、お客さんの装置と当社をネットワークでつなぎ、オンラインで様々な支援を行う充実したサービスを提供しています。
文化のないところにサイエンスは生まれない
高井 最近はオーダーメイド医療や遺伝子治療が言われ、医療の形も変わってきましたが、影響はありますか。
家次 2003年にゲノムが読まれたのを機に、時代は大きく変わりました。一人ひとりが違うということが分かり、あまねく医療から個別化医療、精密医療へと移行し始めました。例えば、臓器別に分類されていたがんは、DNAに変異が起きることによって発生するのですから、どういうがんなのかを見極めて効く薬を使わなくてはいけません。検査結果を基に医師が病名を判断し、治療が終わって効果が出てきているかを検査して判断するというものから、治療の一環として、どの薬が効くのかを判断するものへと検査の役目も変わってきました。
ゲノムが読まれて15年がたち、ようやくがんゲノム医療が始まりました。手術で採取した体の組織を解析する段階から一歩進んで、今は血液中のDNAのかけらを解析しようという研究を進めています。
高井 技術者の皆さんも、科学の進歩について行くのは大変ですね。
家次 昔は機器を製造するテクノロジーが主でしたが、現在はバイオ診断薬の開発が主で、西区のテクノパークに研究開発拠点を置いています。
高井 ユニークで素晴らしい施設ですね。
家次 1986年に西神工業団地に造った開発棟の規模を約4倍に広げ、2008年のシスメックス40周年時に研究開発拠点テクノパークとして開設しました。若い人が日本文化に触れられるように茶室や日本庭園をつくり、芸術性の高いオブジェや絵画も置いています。文化がないところにサイエンスは生まれません。クリエイティビティーは、狭いところで集中して考えたからといって生まれるものではなく、いろいろなものに触れて啓発されながら育つものです。
高井 反響はいかがでしたか。
家次 最初は「なんて贅沢なものつくったんだ?」という反響でしたね(笑)。でも、環境が人をつくります。海外の大きな企業を見ても、広々とした環境の中にあります。
高井 そう言われればGoogleやYahooもオフィスとは思えないような環境で仕事をしていますね。
家次 本当に仕事をしているのですか?遊んでるのではないのですか?という環境でね(笑)。
医療産業都市の発展にはグローバル発信が必要
高井 神戸の医療産業都市構想も20年がたちますが、どうご覧になりますか。
家次 ポートアイランドにはバイオクラスター、メディカルクラスター、シミュレーションクラスターという三つのクラスターがあります。クラスターとは「房」とか「集まり」という意味ですが、それらの横のつながりがまだまだ不十分ですね。病院同士ももっと横のつながりをもたなくてはいけません。
患者さん、特に病気がひとつではない高齢者の立場で言えば、「メディカルクラスターへ行けば診察券はひとつですむ」というところまでいけばいいんですがね。ジェネラルホスピタルが中心にあって、周りにある専門病院へ患者さんを振り分けていくという体制が理想的です。クラスターはそれを実現するには適した環境ですから、うまく利用していかなくてはいけません。
高井 医療産業都市として発展するために必要なことは何だとお考えですか。
家次 医療は最も平和的な国際貢献ですから、もっとグローバル発信する必要があります。神戸は利便性があり医療が充実している都市だということを上手に発信していけば、さらなる発展の可能性は十分あります。
神戸で生まれ育った企業だから、神戸から世界へ
高井 シスメックスは地元神戸へ大きく貢献しています。神戸マラソンのメインスポンサーですね。
家次 ヘルスケアはスポーツと関連が強いですからね。できるだけ病院に行かないように健康で長生きするには、食べ過ぎず、お酒も飲まず、運動したらいいと分かっていてもできないでしょう?だから、楽しくスポーツできたらいいなと思っています。
高井 地元神戸への愛が大きいのですね。
家次 以前はよく、「なぜ東京へ行かないのか?」と聞かれ、「イチロー、新庄現象」と答えていました。イチローはオリックスから、新庄は阪神タイガースから、それぞれジャイアンツへは行かずに(笑)大リーグへ行きました。シスメックスは神戸で生まれ育った会社だから神戸にいて、世界へ出て行く。これが自然でしょう?
アメリカのグローバルな企業がみんなニューヨークにあるのかといえば、全くそういうことはない。ヨーロッパでもそうです。世界で1、2を争うスイスの製薬企業ロッシュとノバルティスは、どちらもチューリッヒなどではなく、田舎町バーゼルにあります。日本は残念ながら東京一極集中です。せっかく神戸にはたくさんの大学があるのに就職では東京へ行ってしまう。これでは若い人が減って地元の活力が生まれません。神戸に就職の機会がいろいろあればいいんですがね。
高井 国際都市神戸としてこれからやるべきことは。
家次 神戸は150年前に開港し、横浜とともに日本のゲートになりました。外国から文化だけでなく、ゴムや鉄など原材料が入ってきてインダストリーが発展しました。ところがある時から衰退してしまいます。ファシリティーは整っているのだから、どうグローバル発信できるかが課題です。
神戸の強みは真南に海、真北に山があることです。環境としては素晴らしいのに、今は六甲山を有効に使えていないし、ウォーターフロントの親水性が利用できていない。神戸空港という新幹線の駅から距離的には日本で最も近い空港があるのだから、今後は南北のアクセスをどうするかで大きく変わってくるでしょうね。SNSなども上手に使って発信していくことが21世紀型の国際都市の在り方だと思います。
企業の持続的成長のために、常に新しいことにチャレンジ
高井 創立50周年を迎えたシスメックスの今後10年、20年、そして100年企業に向けての抱負は。
家次 医療の世界は次々と新しいものが開発され、ゲノム医療が登場するなど、概念も全く変わってきています。今、日本で大きな問題のひとつになっている認知症も新しい治療薬の開発にどこも必死で取り組んでいます。これからは昔と同じことをやっていてはダメです。企業も、猛スピードで変わる環境に適応しながらビジネスモデルを変えて、先を読みながら新しいことにチャレンジしていくことが重要です。「名は体を表さない企業」になることも厭わない。それが企業の持続的成長につながります。
地球レベルでは人口は増え、先進国では高齢化が進み、元気で長生きを誰もが望んでいます。ヘルスケアの需要はますます高まりビジネスとしてマーケットは広がると考えられます。シスメックスは皆さんのお役に立てる良い事業ドメインにいると思っています。
高井 シスメックスさんのさらなる発展に期待しております。
家次 100年企業になるまでは私も生きていないでしょうけどね(笑)。これからは若くて新しい企業や人材がもっと成長してこなくてはいけませんね。そのための力になることも今後の役目だと考えています。
7月4日、シスメックス株式会社本社にて
家次 恒(いえつぐ ひさし)
シスメックス株式会社 代表取締役会長兼社長 CEO
1949年生まれ。大阪府出身。京都大学経済学部卒業後、三和銀行(現三菱UFJ銀行)入行。1986年に東亞医用電子(現シスメックス)入社、1996年に社長に就任。積極的にグローバル化を推進している。2016年、神戸商工会議所第31代会頭に就任。“All Kobe, For the Kobe”をモットーに神戸経済界の先頭に立つ
高井 美紀(たかい みき)
毎日放送アナウンサー
神戸市出身。神戸女学院大学文学部英文学科卒業。1年目で夕方のニュース番組『MBSなう』を担当。その後『VOICE』のニュースキャスターを20年以上務め、関西の夕方の顔となった。入社以来、報道からバラエティーまで幅広く担当。現在はテレビ番組の「住人十色」「医のココロ」「ザ・リーダー」「皇室アルバム」ラジオ「子守康範 朝からてんコモリ!」「日本一明るい経済電波新聞」を担当