12月号
「北野町」の由来になった北野天満神社
「北野町」の名前の由来とは? その起源は北野天満神社にあると考えられている。佐藤典久宮司に、「北野町」の名前の由来や、少年時代の思い出などについてお話を伺った。
北野村の鎮守として崇拝された北野天満神社
北野天満神社は、治承4年(1180)に創建されたと言われています。平清盛公が福原京をつくったとき、都の守り神として京都の北野天満宮の御分霊をこの地に祀ったのが始まりです。天神さんというと学問の神様というイメージがあると思いますが、もともと天神信仰とは菅原道真公の怨霊を鎮めるために始まっていますので、厄除けや災難除けの力があるとされていました。それで、福原京の鬼門にあたるこの場所に建立されたのです。逆に言えば、この神社の場所から当時の都の中心が推し量れます。文献が残っていないので推測の域を出ないのですが、もともとは祠だったのではないかと思います。
江戸時代初期にあたる慶長17年(1612)に検地のために作成された『北野村新開検地帳』を見ますと、既に「北野村」と記されています。そう考えますと、北野天満神社が北野町の前身である北野村の名前の由来になったと考えるのが自然です。現在の神社の規模になったのは、江戸時代中期頃だと考えられています。北野村の鎮守として崇拝されていたのではないでしょうか。
外国人が多く暮らしていた街
父の話によれば、かつて北野町には大きなお屋敷が点在していたそうです。ハンター邸に関しては今もユダヤ教会の上の道に門の形跡が残っていて、そこからずっと歩いていると、ハンターさんの「H」のデザインの塀をところどころに見かけることができます。その広大さに、うちの神社はハンター邸の敷地内にあったのではないか?と思うほどです。
昔は北野町4丁目あたりに大きな集落があり、西脇家という庄屋さんが残っていましたが、氏子さんはあまり多くなくて。というのも日本の住民が少なくて、外国の住民のほうが多かったので。異人館も時代とともに敷地が切り売りされて、そこにいろいろな家ができ、氏子さんは少し増えたのですが、それまでは本当に何軒かだけでした。
私が子どもの頃も外国の方が多かったですね。ドイツ系のトーセンさんのおばあさんにはかわいがってもらいました。風見鶏の館にも誰か住んでいました。その頃、神社は森のように鬱蒼として、ちょっと怖かったです。
そう言えば子どもの頃、友達が洋館に住んでいましたが、あれは異人館だったのかもしれません。その頃の北野町は観光客などほとんどいませんでした。静かな街で、人通りもあまり多くないところでした。
ところが昭和52年(1977)、NHKドラマ『風見鶏』の放送や、ポートピア博覧会の開催もあって、神戸市が土地の一部を購入して公園に変わりました。道路もきれいになりましたね。昔は狭い路地ばかりで、舗装もされていなくて生活感が漂っていましたが、整備されたおかげで明るく快適になりました。
住宅地としても魅力のある場所
北野町は、高級住宅地でもあります。北野4丁目はお医者さんの家が多いです。観光地化により道路などのインフラが整備されたことで、生活環境がより改善されて住み心地も昔と比べ良くなりました。確かに週末やシーズンには観光客が多いですが、一歩入ると静かで、住むにもとても良い街だと思います。
実際に北野町に住んでいて感じるのは、良いお店が多いことです。「北野ガーデン」や「ラ・メゾン・ドゥ・グラシアニ」なんて北野らしいですよね。「北野スキャンダル」も雰囲気があって好きです。今はなき伝説のレストラン「ジャン・ムーラン」も本当に美味しかったですよ。僕ら北野町の人はこだわりじゃないですけれど、山手幹線より下ではなく上で遊ぶんです。それが本当の神戸っ子の遊び方だと勝手に思っています。
安藤忠雄さんの建築が多いのも北野町の魅力のひとつではないでしょうか。ローズガーデンは安藤忠雄さんの初期の作品を代表する建物ですし。また、ブライダル業者が空いた異人館や店舗に入ってきてくれて、華やかになってきています。北野町のイメージを生かした産業が活発になって、街がもっと発展するといいですね。
北野天満神社 宮司
佐藤 典久 さん
1971年、神戸生まれ。皇學館大學神道学科卒業後、広島県宮島、厳島神社に奉職。1997年北野天満神社禰宜、2000年同神社宮司拝命、現在に至る。北野国際まつり等を通し、世界宗教の相互理解、心の国際交流を理念に活動中