11月号
神戸鉄人伝 第23回 兵庫県舞踊文化協会顧問 花柳 五三朗さん
剪画・文
とみさわかよの
兵庫県舞踊文化協会顧問
花柳 五三朗さん
日舞と言えば花柳流、若柳流、藤間流、坂東流…と、華やかで優美な舞が思い浮かびます。兵庫県では、昭和24年に舞踊文化協会が設立され、流派を超えた「ひょうご名流舞踊の会」が開催されてきました。戦後早々にお稽古を再開し、流派・分派を超えた協力を推進してきたのが、花柳五三朗さん。今年の第60回記念公演では、『乗合船』の太夫を演じ、「60回、おめでとう」のことばで場内を沸かせました。門下生のみならず、県下の舞踊家に慕われる五三朗さんに、お話をうかがいました。
―福原のお生まれとうかがいましたが、福原と言えば「江戸の吉原、京都の島原、兵庫の福原」の三原、いわゆる花街ですね。
福原の、それも一番大きな「置屋」に生まれましてね、70名もの芸者衆の中で育ちました。昔の「三原」には、遊郭があり、お茶屋があり、置屋がありました。あの頃の福原はすごいもんでしたよ、千三百人もの芸者衆がおりまして、花魁道中もありました。花魁を呼んで飲食すれば350円 — 家が建つ金額ですよ。当時は、そういうことを楽しむ旦那衆が居たんです。そういう世界を見てきたから、いろんなことを覚えられました。だから今の人たちに、昔はこうだったんだよ、と言ってやることができるんです。
―お稽古をなさるようになったのは?
5歳の時に赤痢に罹りまして、長い間寝ていなければならなかった。その間ずっと毎日、ガラス戸越しに芸者衆の踊りのお稽古を見ていたんです。それで元気になった時に、父の前で踊って見せた。ところが正面から見て覚えたものですから、本来右手に持つべきお扇子を左手に持って…全部鏡に映ったように、逆さに踊ったんですね。叔母が、「この子、踊りが好きみたい」と薦めてくれまして、習うことを許してもらいました。
―それからは、芸の道一筋に?
花柳呂月先生に手ほどきをしていただき、6歳で初舞台、12歳で花柳寿光先生に預けられました。実は9歳の時、関西芝居の坂東寿三郎が、私を養子に欲しいと通っていらしたそうです。でもその話はお断りしたそうで、私は踊りの世界に身を置くことができました。でも時代はもう戦争の色が濃く、寿光先生も兵隊に行かれ、私も海軍を受験して甲種合格し、広島の学校へ行きました。たまたま呉の病院に入っていた時に、原爆を見ました。間もなく終戦となり帰還しましたが、今思えば被爆直後のまちを通って帰ったわけですね。しばらく鳥取の浜村温泉に家族で疎開し、1年程して神戸へ戻ってきました。あの頃は福原から、神戸駅が見えていましたよ。
―お稽古を再開された頃は、食べていくのも大変な時代だったのでは。
お稽古再開は、終戦3年後です。残っている着物は紋付き袴と浴衣だけ、呉服屋も無いので、市場で古着の長襦袢を買いました。弟子も数少ないし、とにかく大変でしたが、ユーハイム、凮月堂、亀井堂などの菓子組合の皆さんが券を買ってくれたりして、応援してくださいました。おかげ様でいろいろご縁もでき、弟子も増えまして、24歳の時にご分家も含め各派で仲良くやっていく場を作りました。その後、兵庫県舞踊文化協会が設立され、今に至ります。
―かつての花街はもう残っていませんが、芸事の文化はどのように引き継がれているのでしょう。
傾向としては、新舞踊の方がいいという人が増えました。日舞の演目は長いですからね。でも芸事は、自分の好きなことをすればいいんです。花街だけでなく、温泉街にも芸者衆は居りましたし、今も少人数ながらも存在します。コンパニオンさんもいいけど、芸ができなかったら芸者じゃないよ、とよく言うんですが、温泉街は芸者衆が居た方が華やかです。有馬温泉にも、芸者衆を無くさないようにと申し上げています。
―海外でも、たびたび公演や指導をなさっていますね。
アメリカを始めヨーロッパ、ロシア、オーストラリアなど、たくさんの国で踊らせていただきました。アメリカなどでは、学校が劇場を持っていて、芸術文化への取り組みが半端ではありませんでしたね。「さくらさくら」の振りを見せたら、子供たちが「やってみたい!」といっせいに舞台へ上がってきたり、常盤津の「狐火」を声も出さずに聴いていたり。金髪を日本髪に結って、常盤津を英語でやったりと、海外の方々が日本文化を学びたいと思っているのが、伝わってきました。こうやって日本の伝統文化を知っていただけるのは、嬉しいことです。
―この道一筋に生きてこられ、夢かなえた人生と言えますか?
一筋にやらせていただいおかげで、元気です。振り返ってみれば、苦労した時代もありますが、面白いこともたくさんありました。この年になりましても、舞台は粗末にできませんね。舞台は怖いです。今もなお、そう思ってやっております。役に気持ちが入らないと、お客様に満足していただけません。ロングランのお芝居は、翌日やり直すこともできますが、日舞公演は一回だけですから、しっかりお稽古して、大事につとめていかないとね。この道に底はありません。体が動く限り、一生勉強です。
(2011年10月6日取材)
とみさわ かよの
神戸市出身・在住。剪画作家。石田良介日本剪画協会会長に師事。
神戸のまちとそこに生きる人々を剪画(切り絵)で描き続けている。
日本剪画協会会員・認定講師。神戸芸術文化会議会員。