2月号
2017年、神戸港開港150年に向けて記念事業実行委員会が結成!
市民とともに祝賀を
神戸の街は神戸港とともに発展してきたことは言うまでもない。
そんな神戸港が再来年の2017年、開港150年を迎える。この記念すべき年を市民とともに祝賀し、海や船、港への関心を深める機会とするだけでなく、さらなる神戸港の発展の新たなスタートとすべく、神戸開港150年記念事業が計画されている。
その準備のためこの1月、「神戸開港150年記念事業実行委員会」が設立され、関係団体、行政、市民等の各代表者が一堂に会する第1回の実行委員会が開催された。規約の制定、顧問等の委嘱などがおこなわれたほか、記念事業のプランについて話し合われるなど、関係団体、行政、市民等が一体となり、一大イベントを成功させるべくプロジェクトが動き出した。
ちなみに、2007年の神戸開港140年では、7月16日に記念式典がおこなわれ、藤田まことさん、池上季実子さんらが参加し、杉良太郎さん、伍代夏子さんのスペシャルコンサートもおこなわれたほか、11月にはKOBE帆船フェスタがおこなわれ、「日本丸」「海王丸」の優雅な姿が港を彩った。さらにシンポジウムやウォークラリー、市民クルーズ、特別展、ヨットレース、クルーズ客船の入港など、年間を通じて多彩な催しが開催され、前年のプレイベントを合わせると約250ものイベントがおこなわれた。
開港150年の記念イベントの詳細は今後企画される予定だが、プレイベントも開催される予定で、祝賀ムードは盛り上がりを見せていくだろう。
神戸港のあゆみ
さて、ここで神戸港150年の歴史を振り返ってみよう。
港としての神戸の源流は太古にまで遡れる。古代には天然の良港という条件を生かし、「務古水門」「大輪田の泊」とよばれて大陸との交易拠点となり、平安時代には平清盛が経が島を築造、日宋貿易で大いに栄えた。室町時代から江戸時代にかけては「兵庫津」とよばれ、国内の海運の要衝として重要な港となり、特に江戸時代は多くの廻船で賑わった。
神戸港の開港は慶応3年(1868)。開港とともに多くの外国人や西洋文化が流れ込み、現在の神戸の礎となった。外国人居留地が整備され、その外側には居住地が広がり、明治初期には神戸駅が開業。外国の資本のみならず、神戸の発展を予見した三井や三菱などの財閥も参入、さらに鈴木商店や川崎造船所、兼松など、近代産業の黎明を切り開いた企業も神戸から生まれている。
開港とともにラムネやサッカーなど文化面でも新たな広がりを見せ、中でも牛肉は神戸名物となり、世界の船乗りたちを魅了した。一方、ブラジルなど海外へ移民する人たちも、神戸港から旅立っていった。
やがて当時、日本一の工業都市、大阪に近い地の利を生かすだけなく、神戸でも製鉄や造船など重厚産業が育ちはじめ、明治末期には香港や上海をしのぐ東洋最大の港町へ。さらに大正時代には現在の新港第四突堤や中突堤など港湾やその関連施設が整備されたことも相まって、港は空前の賑わいをみせるようになる。第一次大戦時は海運業が隆盛を極め、船成金が続出。神戸は世界屈指の港都として繁栄し、栄町は「東洋のウォール街」とよばれ世界の富が集まった。
しかし、戦争の時代に突入。戦時中は空襲の被害を受け、戦後、神戸港は進駐軍に接収される。
クルーズポートとして高まる人気
やがて復興へと立ち上がり、新たな突堤も続々と供用され、戦後の経済成長を下支えするようになり、戦前と同じようにアジアのマザーポートとしての地位に君臨する。
昭和38年(1963)には港のシンボル、ポートタワーが完成。昭和42年(1967)にはコンテナ化に対応した摩耶埠頭が竣工するとともに、開港100年記念式典が華々しく開催された。1970年代はコンテナ取扱量が重量ベースで世界一となる。昭和56年(1981)にはポートアイランドが竣工、博覧会「ポートピア,81」には全国から多くの来場者があった。
さらに六甲アイランド(平成4年・1992埋立工事完了)も整備され、さらなる発展が期待された矢先、平成7年(1995)に阪神・淡路大震災で大打撃を受け、取扱貨物量は激減する。
復興へと立ち上がった神戸港は、ポートアイランドⅡ期や神戸空港が整備され、平成22年(2010)には国際コンテナ戦略港湾に選定される。さらに観光面においても魅力ある港づくりが進められている。みなと総局でも平成17年(2005)から客船誘致に積極的に取り組んだことで、6年連続100隻を超えるクルーズ客船が神戸に寄港した。平成26年(2014)には、震災後最多の外国客船が入港した。開港150年を目前にして、西日本の産業や貨物のゲートポートとして、また日本を代表するクルーズポートとしての経済効果が期待されている。
港なくして神戸なし。神戸港はこれからも神戸の街とともに、未来への航海を続けていくだろう。