2015年
2月号
芦屋川(平成26年7月撮影)

芦屋川リバーサイド・ストーリー

カテゴリ:芦屋

3つの川の「リバーサイド・ストーリー」自然から享受した、類い稀なる立地条件。

芦屋川(平成26年撮影)


海と山、川が編み出す美しき地。
大空に美しい稜線を描く六甲山系を源に、まるで陽光に向かうように「茅渟の海」大阪湾へと注ぐ3つの清流、夙川、芦屋川、住吉川。この3つの川が流れるエリアは、良好な住宅街として識られています。川は長い歳月をかけて花崗岩の砂礫を山から運び扇状地を形成、さらに川沿いに砂礫が堆積して天井川となり、川の両岸は小高い丘になっています。川沿いの高台は今でも爽快ですが、周囲に視界を遮るものがなかった昔は、山の翠と海の碧が寄り添う阪神間ならではの美しい景観を一望できたことでしょう。

(左)住吉川(平成24年撮影) (右)夙川(平成26年撮影)


人間はなぜ水辺を求めるのか?
人はどこか、本能的に水辺を求める傾向があるようです。それは、心に潤いを与えてくれるからなのかもしれません。世界的建築家の黒川紀章氏は、都市のプランニングにおいてよく親水空間を設けたといいます。中でも川は、最も親しみ深い水辺かもしれません。パリのセーヌ川。ロンドンのテムズ川。ニューヨークのハドソン川。世界の都市の多くは川沿いに立地しています。そして世界四大文明のルーツは川にあります。ナイル川がエジプト文明の母であったように、夙川、芦屋川、住吉川の3つの川は、阪神間独自の文化「阪神間モダニズム」を育みました。

守られる「川沿い」の環境と価値。
この3つの川は、大阪と神戸という大都市の間にありながら、澄水に野鳥が集い、鮎の遡上もみられます。川岸には松や桜が植えられ、風も涼やかな市民のオアシスになっています。この良好な環境を守るために、川沿いには風致地区が設定されています。風致地区とは、自然美を維持保存するために厳しく管理されている地区で、建設物の建築や樹木の伐採などに一定の制限が設けられています。

※阪神間の風致地区概念図


野村不動産と3つの川。
阪神間の中でも3つの川に沿うエリアは住宅地として好条件が揃い、関西圏の中でも屈指の人気エリアのひとつです。野村不動産はこれまで、グッドデザイン賞を受賞した「ザ・ハウス住吉本町」をはじめ、「プラウドタワー住吉」や「プラウド夙川名次町」など、このエリアにふさわしいマンションを数多く手がけてきた実績があります。

(左)「住吉川リバーサイドフォーラム ザ・レジデンス(左)」・「プラウドタワー住吉(右)」 [平成25年9月竣工(分譲済)](中)「ザ・ハウス住吉本町」 [平成17年1月竣工(分譲済)](右)「プラウド夙川名次町」 [平成23年10月竣工(分譲済)]


自然に恵まれた郊外の楽園を土壌として日本の近代に萌芽した阪神間モダニズム。

平田町の邸宅(一部現存していないものがあります。)


川沿いからはじまった邸宅の系譜。
阪神間モダニズムとは、明治末期から戦前にかけて阪神間を中心に発展した近代的な芸術や文化、ライフスタイルのことで、近現代の生活や文化に大きな影響を与えました。モダニズムの背景には、富裕層を対象とした郊外住宅地の開発がありますが、その嚆矢となったのは住吉川の川沿いでした。明治末期、ここに朝日新聞の創業者の一人、住友銀行の初代支配人、東洋紡績の社長などが住まいを求め、やがて経営者や学者、大阪の大地主たちが移り住み、邸宅や別荘が建ち並びます。野村不動産のルーツである野村財閥の創始者、野村徳七もこの地に邸宅を構えました。以降、宅地の開発は阪神間各地でおこなわれるようになりますが、中でも住吉川沿いと芦屋川沿いは区画ごとの規模が大きく、「お屋敷街」として名を馳せるようになります。

平田町の邸宅


鉄道とともに発展した郊外住宅地。
明治7年(1874)に官営鉄道(今のJR)大阪~神戸間が開通、住吉に駅が設けられたことを契機として住吉川沿いが発展していきます。しかし、官営鉄道は「汽車」で本数も少ないもので、郊外住宅地は、便利な私鉄の「電車」による都市間交通の整備により発展していきました。関西の私鉄は現在の南海が最初に開業し、それにともない大阪中心部の富豪たちは帝塚山に目を付け、その後明治38年(1905)に阪神が、大正9年(1920)に現在の阪急神戸線が開業したことにより、阪神間が大阪の郊外住宅地の中心となっていきます。阪神間ではまず阪神、続いて阪急が開通したこともあり、郊外住宅地は浜側から山手へと伸展。大正12年(1923)の関東大震災により東京から多くの財界人や文化人が関西に移ってきましたが、その際にも環境の良い阪神間が選ばれ、ますます発展したのです。

明治38年(1905)、阪神電車が梅田~三宮間に開通。
同時に芦屋駅が開設された


都市化が進む大阪から健康的な阪神間へ。
明治末期~昭和初期にかけての大阪は「東洋のマンチェスター」とよばれる日本一の工業都市でしたが、その繁栄の裏側には環境の悪化があり、特に大気汚染と水質の悪化は市民生活に大きな影を落としていました。一方で阪神間は空気清澄、水も宮水に代表される六甲の伏流水で水質も良く、海水浴まで楽しめる良好な環境。ゆえに大阪の商人たちは家族、特に子どもたちの健康のためにこぞってこの地を求めました。当時の冊子『郊外生活』に医師が寄せた記事には「北は山を負ひて寒風を防ぎ、南は海に面して涼風来たり、冬は暖かにして夏涼しく、大気清浄オゾンに富み、海水清澄、漁獲多く、山水明媚、風光に富み、四時風の方向宜しき上に、交通至便」とあり、いかにこの地が理想的であったかが伺え、実際に医師たちも多く移り住みました。避暑に滞在した後に移住した例も多く、今で言う「リゾート」に住むという感覚だったのかもしれません。

宮水発祥の地(西宮市久保町)


(左)芦屋浜で海水浴を楽しむ人々(大正末期)(右)芦屋浜に近いことで、平田町は別荘地として開けた(大正末期)


東西の文化が融合する場所に。
阪神間へ移り住んで来た人たちの多くは上流階級で、中でも大阪・船場の商人たちが主体でした。良好な環境であったことはもちろんですが、風水によれば西・北は金運や事業運に恵まれるとされていることも、大阪からみて西~北西に位置した阪神間が選ばれた理由の一つと考えられます。阪神間に邸宅を構えて移り住んだ商人たちは、昔ながらの粋な船場文化の影響を受けていましたが、国際貿易港として栄えていた神戸に近づいたことで洋風文化にも触れ、和洋折衷の独自の文化を育んでいきました。その様子を見事に描き出したのが、名作の誉れ高い谷崎潤一郎の『細雪』です。

谷崎潤一郎と『細雪』のモデルとなった松子夫人


芦屋市谷崎潤一郎記念館


モダニズムの最先端を駈けた麗しく豊かな「芦屋ライフ」。

芦屋における住宅開発のあゆみ。
古から風光明媚な地として知られ、江戸時代の「摂津名所図会」に海岸~芦屋川沿いの松林が描かれていた芦屋もまた、郊外住宅地として人気を集めます。宅地開発がおこなわれたのは大正初期からで、芦屋川改修や耕地整理の結果、自然の景観を生かした美しい住宅地が出現します。海岸部の平田町の開発は大正4年(1915)からの芦屋川の改修とともにおこなわれ、六麓荘の開発は昭和に入ってからと、その開発は阪神芦屋駅の浜側から次第に山手へと拡大していきました。

『摂津名所図会』(寛政8年〔1796〕刊行)に描かれた芦屋川。芦屋市教育委員会発行の『芦屋川の歴史』より


芦屋に花開いた建築文化。
数多くの名士たちが居を構えるようになった芦屋には、渡辺節、村野藤吾など当時のトップクラスの建築家たちが手がけた邸宅が建ち並ぶようになります。その際たるものがフランク・ロイド・ライトが設計した旧山邑邸(現在のヨドコウ迎賓館)です。芦屋洋館建築研究会代表の福嶋忠嗣氏によれば、芦屋には主に接客に使用される洋の空間と、日常生活の場としての和の空間を兼ね備えた「和洋館」という独特の建築が多くみられ、その様子から欧米文化を吸収し自分たちの文化に昇華させていった芦屋の人たちの暮らしぶりが伺えます。

大正末期の芦屋川の風景。最上部に旧山邑邸が見える


麗しき芦屋発祥のモダニズム。
ブルジョア層が定着した芦屋は、モダニズム文化の揺籃の地でした。日本初のファッション月刊誌は芦屋から生まれ、最新のモードの紹介のみならず、昭和初期という時代にダイエットの記事が載るなど、この地を選んだ人々がいかに裕福であったかが伺えます。平田町の少し西には芦屋(深江)文化村とよばれた一角があり、ここから朝比奈隆、服部良一、貴志康一などの世界的音楽家が羽ばたいています。テニスも盛んで、お屋敷の多くは敷地にテニスコートを有していました。作家の谷崎潤一郎や詩人の富田砕花、俳人の山口誓子、画家の小出楢重、写真家の中山岩太やハナヤ勘兵衛など芸術家たちもこの地を愛し、独自の芦屋文化を醸成していきました。

昭和30年(1955)、ハナヤ勘兵衛らが松浜町で開催した「芦屋屋外モダンアート実験展」


あまたの名士・文化人たちが集う芦屋川沿い。
芦屋には多くの富豪や芸術家が在住するようになりましたが、福嶋忠嗣氏の調査によれば、平田町など海に近いエリアにおいて、芦屋川の右岸(西側)には財界人、集落に近かった左岸(東側)には文化人や知識人が多かったという傾向がみられるそうです。右岸には高島屋の創業家、朝日新聞の創業者の一人、ほかにも当時の主要産業であった紡績や船舶関連の企業家たちが邸宅を構えました。一方、左岸には「日本のプリンシパル」白洲次郎、建築・絵画・文芸などマルチな才能を発揮した西村伊作などが住み、与謝野晶子も門下生を訪ねてしばし滞在。「ふるさとの和泉に暗き雲沸きて芦屋に見るは紀の国の山」という彼女の歌からも、いかに芦屋が憧れの地であったかが伺えます。

(左)福嶋忠嗣氏/建築家 芦屋の景観を考える会代表、芦屋洋館建築研究会代表などを務める (中)船舶関連の企業家宅にあった柱頭飾 (右)平田町にあった邸宅


芦屋の原風景。この地に込められた思い。

清流沿いの得がたきこの地に。
華やかな芦屋文化の担い手たち、特に文化人たちの多くは浜側を拠点としていました。中でも芦屋川沿いは特に景観が良く、芦屋らしいところです。芦屋川の清流が海へと注ぐ平田町は、芦屋の中でも「お屋敷街」としての歴史と風格を備え、世界的邸宅街としての芦屋の源流ともいえる場所です。芦屋川は平野部を流れる距離が約2キロと短く、川沿いの土地は自ずと限られています。本物件は東面が芦屋川に隣接し、3面接道の開放的な土地に建設されますが、良好な条件を備えた土地であるといえます。

旧田中岩吉邸(「プラウド芦屋平田町」従前地)


旧田中岩吉邸へのオマージュ。
「プラウド芦屋平田町」の従前地には、芦屋の絵はがきにも登場するなど、平田町、いや、芦屋のシンボルとして愛された瀟洒な洋館、旧田中岩吉邸がありました。この建物は大正12年(1923)、「様式建築の名手」と評された松井貴太郞の設計により建設され、当時の建築雑誌『新建築』に「堂々たる英国風のもので、芦屋川の対岸から見たときは、磯馴松の梢を透かして、スレート葺きの寄棟が高く聳え、此辺では一際目立つ御邸」と紹介されています。松井はこの邸宅を手がけた後、自らの家も芦屋に建設するなど、芦屋の魅力に魅せられた一人でもあります。本物件は、かつてこの地で人々の憧憬を集めた旧田中岩吉邸の気品と品格を沿道の石積みや既存樹とともに受け継ぎ、往時の面影を慕いつつ芦屋川の景観と調和した邸宅美を描きます。

絵はがき(芦屋川と旧田中岩吉邸)


この地を愛した華麗なる住人たち。
田中岩吉氏は数々の企業を経営した実業家で、「現代的な生活様式を」と全室洋室の邸宅を建てました。建物の建設中に外遊し、海外で新邸のための調度品を取りそろえ、家具などはもちろん、自動湯沸器や焼石コンロなど当時最新の設備までアメリカより調達し装備。時代の一歩先を行く理想の邸だったのです。
やがて田中岩吉氏よりこの洋館を受け継いだのは、当時紡績業界に君臨していた近江商家、阿部一族の実業家、阿部彦太郎氏でした。全国の米相場にその名を轟かせた稀代の商人、先代阿部彦太郎氏の手腕を受け継ぎ、東洋紡、内外綿、大阪製麻、大阪商船、豊国火災など数々の企業の重職を務めました。
戦後はタツタ電線の社長、辰巳卯三郎氏の邸となり、優雅な暮らしが営まれていました。卯三郎氏の長男、辰巳一郎氏は後にランドプランナーとして世界で活躍しますが、「この家が建築のすべてを教えてくれた」と語っています。一郎氏が巨人軍の藤田元司選手と親交が深かったこともあり、当時のスター選手たちもたびたびこの邸宅にやって来ました。また、広大な敷地では映画のロケがおこなわれ、俳優たちが訪れることもしばしばでした。

(左)辰巳一郎氏が旧田中岩吉邸に住んでいた頃の写真 (中)読売ジャイアンツ・藤田元司投手(左から2人目)と (右)辰巳一郎氏


今も変わらぬ価値と景観。
時代は変わっても、平田町には昔と変わらぬ静謐さと趣き、そして落ち着きがあります。華美な「高級住宅街」の雰囲気はなく、「お屋敷街」の厳かさが、この地を誇りに思い、そして愛する住人たちにより保たれているのです。芦屋邸宅文化の本流は今なお、芦屋川のゆかしき瀬音とともに、絶え間なくこの地にせせらいでいます。

芦屋公園(徒歩2分/約90m)より本物件を望む[平成26年7月撮影]


参考文献
『阪神間モダニズム再考』竹村民郎著/三元社 『 阪神間モダニズム : 六甲山麓に花開いた文化、 明治末期-昭和15年の軌跡』「阪神間モダニズム」展実行委員会編著/淡交社 『阪神間モダニズム展 ハイカラ趣味と女性文化』芦屋市谷崎潤一郎記念館・芦屋市文化振興財団編/芦屋市谷崎潤一郎記念館 『第29版 日本紳士録』/交詢社 『大正人名辞典 第4版』/東洋新報社 『明治大正史』/実業之日本社 『新建築』大正15年6月号/新建築社

先人たちが築き上げた街の美観を守るべく「独自路線」を貫く芦屋市と芦屋市民の意識。

芦屋川(平成26年7月撮影)


景観美化への意識が高い芦屋市民。
華美ではないが、奥ゆかしく凛とした風情を残す平田町。優美な曲線を描く松の古木に象徴されるその美観は、住民の手により守られています。平田町に限らず、芦屋市の住民は街の景観を受け継ぎ、守ろうという意識が強いようです。芦屋神社の山西康司宮司は「家の前をこまめに掃除したり、門の前に花を飾ったり、市民一人ひとりの景観への意識が高い」と語ります。規制緩和に流れるのが市民の考え方としては普通ですが、芦屋は逆で、美しい景観を守る市民運動などを通じて市民が行政に縛りをかけていく傾向があります。それは真の豊かさを識る芦屋の人々が、この得がたい景観が芦屋の価値を高めていると認識し、そして何より芦屋の美しい風景を愛しているからにほかなりません。

景観を守る厳格な取り組み。
平成16年(2004)に「芦屋庭園都市宣言」をおこなった芦屋市独自の景観に関する規定は、京都と並び全国的にみても厳しい内容になっています。芦屋市は全市域を景観地区に指定し、さまざまな景観規制がありますが、特に大規模開発は都市景観アドバイザーによる「美観」の審査が必要とされ、データ提示だけにとどまらない感覚的・実践的な景観保全が求められています。景観地区の中でも平田町をはじめとする芦屋川沿岸の地域は「河岸の松や桜の並木と宅地内の生垣、樹木及び御影石の石積等が一体となった緑豊かな特徴ある景観」の保全を目的として芦屋川特別景観地区に指定され、壁面の意匠や屋根の形状に関するまで細やかな規定により周囲の景観との調和が求められています。

条例によるさまざまな規制。
泉佐野市から姫路市にかけての大阪湾~播磨灘の臨海部において、工業地域・準工業地域がない市町は芦屋だけです。また、商業地区も駅前など限られた市域にしかありません。ゆえに芦屋市の税収は市民からの住民税の割合が高くなっています。さらに芦屋市は独自の条例でさまざまな規制をかけています。「芦屋市住みよいまちづくり条例」では大きな敷地を分割する際の最低敷地面積の設定やワンルームマンション建設の規制など厳しい建築規制が設けられているだけでなく、市民のまちづくり団体が定めたまちづくり協定を市が認定するといった取り組みもおこなわれます。芦屋市は平成26年(2014)に市独自で景観計画を定めることが可能な景観行政団体へと移行し、屋外広告物条例の策定などの景観規制が検討され、今後も永続的に景観保全に向けた規制の厳格化が進むとみられています。

法律で守られる「国際文化住宅都市」。
芦屋市は昭和26年(1951)に制定された「芦屋国際文化住宅都市建設法」により、住民投票を経て国から国際文化都市に指定されています。個別の法律で国際文化都市に指定されている自治体は全国でわずか9つ。芦屋以外はすべて観光都市で、文化住宅都市は芦屋のみです。芦屋市の景観は、自治体が制定する条例だけではなく、芦屋のために国会が制定した法律によっても守られているのです。芦屋の美観は芦屋市民だけのものではなく、日本国民の誇りともいえるでしょう。

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