8月号
第十八回 兵庫ゆかりの伝説浮世絵
中右 瑛
山陽路に伝わる天神縁起
県内の山陽路には天神様の宮社が多い。須磨の綱敷天満宮、明石人丸の休天神社、浜の宮天満宮、曽根天満宮、大塩天満宮、飾磨の津田天満宮…など数えあげたらきりがないほどである。各神社には天神様のさまざまなエピソードが伝えられている。
平安の昔、右大臣・菅原道真公が政争に破れ九州大宰府に流されたとき、途次、この山陽路を渡った。清廉潔白、学問好きの道真公を、後の人たちは学問の神様、天神様として崇め祀ったのである。入試合格祈願などに霊験あらたかだという。
公は承和十二年(845)年六月二十五日、京都菅原院にて誕生、幼名を阿呼という。祖先は相撲の始祖で名高い野見宿禰で、その十四代から菅原姓を名乗り始めたという。祖父は十五代清公、父は是善、いずれも学問に秀でた人物であった。公は九歳の時には、日本はおろか中国の学問を深く修めていたほど。時の帝・醍醐天皇(在位897~930年)も公の英才を高く認め、早くから公を重職に執りたてていた。天下は藤原一族の全盛時代。藤原独裁色が強まるにつけ、帝はその政権を抑えるために、最高職・正三位右大臣に起用した(899年)。公は五十五歳。しかし、破格なる出世ぶりに心おもわぬ者がいた。右大臣藤原時平である。時平の讒言により、公はあらぬ罪をきせられ、遠い九州にまで左遷させられてしまったのである。冤罪を晴らすことも叶わぬまま、九州に旅立たねばならなかった。
昨日まで天下の公が、今日ははかなくも都落ちとは、誰が想像できたであろう。紅梅殿の梅は、主の旅立ちを悲しんでか、寂しげだった。日ごろ丹精込めて手入れしていた梅の木を残して去る公はなんとなく気のこり。「春には美しく咲いてくれよな…」そんな気持ちを歌に託した。
東風ふかば においのこせよ 梅の花
あるじなしとて 春を忘れな
この句を残して公は京を発ち、苦しい長い旅路についたのである。
瀬戸内は舟で渡った。須磨の浦では暴風雨に遭い、海辺の漁舎に遭難、漁人の計らいで網の円座を作ってもらい、そこで風が止むまで座し時を待った(綱敷天満宮由来)。明石の浦で船酔い気味の公は一休みのために上陸。出迎えた里の長は、落ちゆく哀れな公の姿に、そっと涙を拭った。それを見た公は、「駅長、嘆き悲しむことなかれ、一栄一落はこれ春秋のたとえ、また花の咲くこともあろう」と詠じた。いまも“菅公腰掛の石”が残る。後世、人々はここに小さな社を建立、これを休天神と名づけた(休天神社由来)。
高砂近くに来たとき、伊保港に舟を寄せ、公はソネの日笠山に登り、播磨灘の風光を賞せられ、その際「わが罪なくば栄よ!」と祈念して松を植えられた。“曽根の霊松”としてその名を残す(曽根天満宮由来)。飾磨の船場川の河口付近の入江で舟をしばし休め、これからの行き先を、公は思案にくれた、ということで「思案橋」の名が残る。今は「菅公小憩伝説地」の歌碑が建つ。また梅をことのほか愛した公、その梅は主を追って大宰府にまで飛梅してきた。各地に飛梅、飛松の伝説が残る(神戸市須磨区飛松町由来)。
ある時は舟を枕にし、ある時は貧しい里人舎に身を寄せ、板囲いの宿で一夜を過ごすこともしばしば(神戸市須磨区板宿町、地名由来)。苦難の旅だった。
大宰府の公は侘しい毎日だった。無実を天に訴え帰還の日を夢見たが、とうとう果たせなかったのだ。大宰府に来て二年目、延喜三(903)年二月二十五日、無念にも公は薨った。享年五十九歳。清らかな心、秀でたる才。学問の道に目覚しい足跡を残して…。
ところが公の没後、都で天災、災害が頻繁に起こった。わけても落雷が多く、特に藤原一族に災厄がふりかかった。「公の怨霊が雷となって藤原一族を襲った!」人々は恐れおののいたのだ。以来、天の神と崇め、魔除けの天神社として各地に建立された。
中右瑛(なかう・えい)
抽象画家。浮世絵・夢二エッセイスト。1934年生まれ、神戸市在住。行動美術展において奨励賞、新人賞、会友賞、行動美術賞受賞。浮世絵内山賞、半どん現代美術賞、兵庫県文化賞、神戸市文化賞、地域文化功労者文部科学大臣表彰など受賞。現在、行動美術協会会員、国際浮世絵学会常任理事。著書多数。